井川屋の取引先
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 13:37 UTC 版)
美濃志摩屋 京都伏見にある寒天製造元。天明8年に京都を襲った大火で店と寒天場を失い、意気消沈してやがて亡くなった。そして、遠縁の孝三が後を継いだ。 山城屋(やましろや) 小商いの乾物商。40代の厳つい風貌。井川屋が「浮舟」にだけ上質の「伊豆の寒天」を卸してひいきしていると、松吉に嫌みを言ったが、松吉の弁明に納得して謝罪した。その後、和助の依頼により、「浮舟」で夫婦して食事をして産地偽造の証拠を得た。 妻が寝込んだときに、梅吉が奥を手伝ってくれ、それ以来彼を気に入って養子に迎えたいと願ったが、いったんは本人に断られた。 寛政4年に起こった大火で店を失うと、商売再開のめども立たず、妻も寝込んでしまった。しかし、梅吉が養子に入ることになり、再び生きる希望を取り戻す。 山城屋の妻 主より6、7歳若い。亡父が美濃志摩屋の職人だったため、そこでの労働がどれほど過酷か知っており、松吉が美濃志摩屋で修行したことを知って目を潤ませた。 お広の葬儀の時には、憔悴した真帆に寄り添い、その後初七日が過ぎるまで面倒を見た。そして、松吉に彼と真帆とが慕い合っているのは、誰の目にも明らかであり、お広も二人が結ばれることを望んでいたと語った。 松葉屋(まつばや) 大店の乾物商。69歳。常は鷹揚な態度だが、山城屋と同様、井川屋が浮舟ばかりをひいきしていると怒鳴り込んできて、一方的に取引停止を通達してきた。しかし、浮舟の偽装だったと分かって謝罪し、取引を再開した。 宗八(そうはち) 島之内にある4代続く老舗高級料理屋「浮舟」の主人。井川屋から仕入れた丹波産天草で作った寒天を、伊豆産と偽装した。それがばれて、井川屋から取引停止を言い渡される。すると、偽装したのは井川屋で、自分たちは騙されただけだという噂を広めたが、心ある奉公人たちが店を辞めて真相を漏らしたため、信用が地に落ち、客足が戻ることはなかった。 半兵衛(はんべえ) 松吉が美濃志摩屋で修行していたとき、優しく接してくれた兄のような寒天職人。後に独立して、摂津国島上郡の原村に寒天場を拓いた。 美濃志摩屋が大火で被災したとき、松吉と再会した。そして、腰の強い寒天を作ろうとする松吉を毎年迎え入れ、場所と材料とアイディアを提供してくれた。 併せて、井川屋が半兵衛の作る寒天を仕入れてくれるようになり、特に松吉の試行錯誤の中で生まれた糸寒天が評判となって、半兵衛の寒天場も大いに繁盛する。それを妬んだ美濃志摩屋の跡取り孝三の差し金で、丹後産の天草を使えなくなるという危機を迎えたが、井川屋が融資してくれた銀2貫のおかげで、伊豆産の天草を仕入れることができるようになり、ますます質が向上した。 糸寒天を餡のつなぎにする研究に行き詰まっている松吉に対して、自分で餡を作ってみたらどうかと提案する。その結果、ついに練り羊羹が誕生することとなった。 モデルは、高槻城山の出身で伏見の美濃屋利兵衛のもとで寒天の製法を学び、1787年(天明7年)から1788年(天明8年)頃に郷里に戻り改良を重ねて「細寒天」の製法を確立・商品化した宮田半平と推察されている。 孝三(こうぞう) 大火の後に亡くなった美濃志摩屋の後を継いだ。和助より30歳ほど若い。半兵衛の寒天場が繁盛しているのに嫉妬し、井川屋に半兵衛との取引を停止するように要求した。逆に和助から取引停止を告げられた孝三は、今度は半兵衛が丹後産の天草を使えなくなるよう手を回した。 桜花堂(おうかどう) 大坂市内で最も求心力のある高麗橋通りにある老舗菓子店。糸寒天を餡のつなぎに使う研究に行き詰まった松吉は、漉し餡のみを求めに行き、ここの丁稚に追い返された。 井川屋とは格が違い、それまで取引はなかったが、練り羊羹が完成すると、和助が主人と面談して試食させた。主人はその食感に驚き、大変な商売敵が現れたと色を失う。しかし、和助が練り羊羹の作り方は公開し、誰でも作れるようにすると言ったため、桜花堂でも井川屋から糸寒天を仕入れ、練り羊羹を作って売ることになった。
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