二科入選・野田英夫・結婚
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「松本竣介」の記事における「二科入選・野田英夫・結婚」の解説
父勝身はもとはキリスト教徒だったが、日蓮宗に改宗し、その後さらに生長の家の信者になった。また、父が熱心に勧めた影響で兄の彬も生長の家の熱心な信者になった。創始者の谷口雅春が芸術雑誌「生命の藝術」(昭和8年創刊)を出すことを彬に話したため、その編集を任せようと竣介を誘った。1930年頃のことである。 しかし、当初竣介はこの話には乗り気ではなく、編集を承諾したのはそれから3年後だった。兄とともに編集を始め、1936年まで続けた。この仕事場で、後の妻松本禎子と知り合った。1933年(昭和8年)には、共同アトリエ時代の仲間を介して靉光と知己を得た。 1935年、鶴岡政男らが作ったNOVA美術協会の展覧会に出品、すぐに同人に推薦された。同年秋、二科展に初入選した自分の絵(「建物」(1935年 油彩・板に紙 97.8×130.5cm 神奈川県立近代美術館蔵))を禎子に見せるため上野の美術館に行き、そこで初めて野田英夫の作品(「帰路」と「夢」)に触れ、その後しばらく影響を受ける。翌1936年の二科展に出品した「街」(油彩・板、131×163cm、大川美術館蔵)は野田の影響の濃い作品だった。また、1937年1月に野田英夫が急逝した際、限定500部で発行された野田の作品集(入手できたのは200番の作品集だった)を三円五十銭をはたいて買っている。 禎子との結婚話は、父の勝身を通して松本家の恒(禎子の母)に持ち込まれた。当初松本家はこの結婚に反対で、その雰囲気を察して勝身は、竣介を松本家の養子に出してもいいと申し出た。1936年2月3日、東京会館で生長の家の方式に則って結婚式が行われた。結婚当初は松本家に住んでいたが、間もなく別の借家に引越し、義母の恒、禎子の妹2人(泰子、栄子)と共に住んだ。借家は島津製作所の3代目社長島津源吉の夫人とみが建てたもので、130坪の土地にアトリエつき2階建ての瀟洒な洋館だった。 「生命の藝術」の編集に携わっていた間、竣介は生長の家の信者だったが、宗教団体へ衣替えした頃から嫌気が差し、教祖の谷口に手紙を書いて訣別した。ほぼ同時期に、父の勝身、兄の彬、妻禎子や松本家の恒も脱会した。
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