二科入選・野田英夫・結婚とは? わかりやすく解説

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二科入選・野田英夫・結婚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 05:13 UTC 版)

松本竣介」の記事における「二科入選・野田英夫・結婚」の解説

父勝身はもとはキリスト教徒だったが、日蓮宗改宗しその後さらに生長の家信者になったまた、父が熱心に勧めた影響で兄の彬も生長の家の熱心な信者になった創始者谷口雅春芸術雑誌生命藝術」(昭和8年創刊)を出すことを彬に話したため、その編集任せようと竣介を誘った1930年頃のことである。 しかし、当初竣介はこの話には乗り気ではなく編集承諾したのはそれから3年後だった。兄とともに編集始め1936年まで続けた。この仕事場で、後の妻松本禎子知り合った1933年昭和8年)には、共同アトリエ時代仲間を介して靉光知己得た1935年鶴岡政男らが作ったNOVA美術協会展覧会出品、すぐに同人推薦された。同年秋、二科展初入選した自分の絵(「建物」(1935年 油彩・板に紙 97.8×130.5cm 神奈川県立近代美術館))を禎子見せるため上野美術館行き、そこで初め野田英夫作品(「帰路」と「夢」)に触れその後しばらく影響を受ける。翌1936年二科展出品した「街」(油彩・板、131×163cm、大川美術館)は野田影響の濃い作品だった。また、1937年1月野田英夫急逝した際、限定500部で発行され野田作品集(入手できたのは200番の作品集だった)を三円五十銭をはたいて買っている。 禎子との結婚話は、父の勝身を通して松本家の恒(禎子の母)に持ち込まれた。当初松本家はこの結婚反対で、その雰囲気察して勝身は、竣介を松本家養子出してもいいと申し出た1936年2月3日東京会館生長の家方式則って結婚式が行われた。結婚当初松本家住んでいたが、間もなく別の借家引越し義母の恒、禎子の妹2人(泰子栄子)と共に住んだ借家島津製作所3代目社長島津源吉夫人とみが建てたもので、130坪の土地アトリエつき2階建ての瀟洒な洋館だった。 「生命藝術」の編集携わっていた間、竣介は生長の家信者だったが、宗教団体衣替えした頃から嫌気差し教祖谷口手紙書いて訣別した。ほぼ同時期に、父の勝身、兄の彬、妻禎子松本家の恒も脱会した。

※この「二科入選・野田英夫・結婚」の解説は、「松本竣介」の解説の一部です。
「二科入選・野田英夫・結婚」を含む「松本竣介」の記事については、「松本竣介」の概要を参照ください。

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