二・二六事件での行動
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昭和11年2月10日夜 歩兵第3連隊週番司令室で、歩兵第3連隊第6中隊長の安藤輝三大尉、歩兵第1連隊付けの栗原安秀中尉、所沢陸軍飛行学校の河野寿大尉、元一等主計磯部浅一と集合し、決起する準備にとりかかることを決める。 25日 午後10時30分頃、部下の下士官を連れて弾薬の受け取りのため歩1の栗原中尉のもとを訪れる。 26日 午前4時20分、近歩3第7中隊に非常呼集がかけられる。午前4時40分 同隊が出発。 午前5時 同隊は高橋是清蔵相私邸を襲撃開始する。 午前5時5分頃 同隊は高橋蔵相を殺害。 中橋隊は、午前5時10分ころ高橋是清大蔵大臣を殺害した後、宮城に向かう。 午前6時ころ宮城守衛隊司令官の門間(かどま)健太郎少佐に坂下門の警備を願い出て、休憩の後、午前7時半ころ坂下門の警備についた。午前8時ころ、中橋が警視庁を占拠していた野中四郎大尉と清原康平少尉へ手旗信号を送ろうとしたところ、疑いを抱いた門間少佐の部下に止められた。中橋が休憩でぐずぐずしていたのは、皇居周辺で皇軍同士の争いが起こることをおそれたためではないか。 清原康平少尉は「遂に待ちぼうけだったか」と思ったそうである。 午後3時20分 「陸軍大臣告示」が告示、30分には中橋含む決起将校達に下達される。 27日午後2時~5時の間 栗原中尉、林少尉を除く決起将校達(中橋含む)が真崎大将と会見する。夜 栗原隊と共に首相官邸に宿営する。 下士官は原隊復帰せよとの報告が入る。 午後 将校達は部隊の下士官に対し、檄文を発表する。内容は以下の通りである(本来は縦書きである)。 檄文尊王討奸の義軍は如何なる大軍も兵器も恐れるものではない。又如何なる邪智策謀をも明鏡によって照破する、皇軍と名のつく軍隊が我が義軍を討てる道理がない。大御心を奉戴せる軍隊は我が義軍に対して全然同意同感し、我が義軍を激励しつつある。全国軍隊は各地に蹶起せんとし、全国民は万歳を絶叫しつつある。 八百万(やおろづ)の神々も我が至誠に感応し加護を垂れ給ふ。 至誠は天聴に達す、義軍は飽くまで死生を共にし昭和維新の天岩戸開きを待つのみ。 進め、進め、一歩も退くな、一に勇敢、二にも勇敢、三に勇敢、以て聖業を翼賛し奉れ。 昭和11年2月28日 維新義軍 29日午後0時50分 中橋含む将校達が免官となる。午後1時前 安藤隊除く反乱部隊(中橋隊含む)が帰順、反乱将校として中橋は陸相官邸に招集される。 午後3時 戒厳司令部は事件の終結を宣言。 3月2日午後3時25分 反乱部隊将校達20名の地位・階級が返上されたことが発表される。 4月28日 特設軍法会議将校斑の初公判が開廷する。 6月4日 同会議第23回公判で論告求刑が行われる。 7月5日 同会議の判決が下される(中橋含む死刑17名、有罪76名)。 12日午前7時54分 中橋中尉、丹生中尉、坂井中尉、田中中尉、中島中尉の死刑(銃殺刑)が陸軍刑務所で執行される。 9月26日 陸軍は二・二六事件の全処理を完了したと発表。
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