主任指名とその初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/12 16:15 UTC 版)
「フランクリン・ピール」の記事における「主任指名とその初期」の解説
アダム・エックフェルトが1839年に退任するとき、ピールを後継者に推薦した。このときアメリカ合衆国上院は会期中ではなかったため、ピールはマーティン・ヴァン・ビューレン大統領から、1839年3月27日にフィラデルフィア造幣所の貨幣鋳造主任に休会中任命を受けた。1840年1月23日、上院が再招集されるとヴァン・ビューレンが改めてピールを指名し、上院が2月17日に承認を与えた。エックフェルトは退任したにも拘らず、毎日造幣所に通い続け、1852年2月に死亡する直前まで続けた。この間貨幣鋳造主任の任務を遂行し、ピールに時間的余裕を与えた。 ピールはその任命から間もなく、造幣所の施設内で私的事業に関わるようになった。ピールはそれを民間会社のために政府の資産と労働力、およびフィラデルフィア造幣所の施設を使い、メダルをデザインし、打ち抜き、販売した。ピールの事業は大変利益が上がり、しかも経費は最小だった。この行動はフィラデルフィア造幣所の他の役人も知った上で行われており、その大半はピールの友人と親戚だった。顧客には企業や、結婚50周年を祝うカップルなどがいた。ロバート・E・ライトの初期金融の中心だったフィラデルフィアの歴史に拠れば、ピールの事業の合法性は不明であるが、「その事情の不確かさが、フィラデルフィアのチェスナット通りで誰かが騒ぎを起こすことをほとんど避けられなくした」とされている。 この行動は貨幣学著作者によって様々に特徴づけられてきた。貨幣のディーラーで貨幣学者Q・ディビッド・ボウワーズに拠れば、「ピールはその地位と特権の悪用を始め、実際に政府からサービスを盗んだ」となる。バーデットは「全体として、ピールが造幣所の設備と職員を使い、連邦議会や造幣局支配人に指示されたようにメダルを作り、民間および公式の型を使ってコピーを作り興味のある人なら誰にでも販売したことが見える。私的な販売の場合に、ピールは政府の金属を使ったように見られ、メダルのために集金したときに金塊の勘定を埋め合わせた。利益は造幣所の元帳には入らず、どれだけピールのものになったか不明であり、またどれだけが造幣所であるいは造幣所の貨幣キャビネットに入ったかも不明である。その総量はおそらくそれほど大きなものではなかった。 秤制作者のサクストンが1844年に造幣所任務を離れた後、サクストンが担当していた細かいバランスを維持し、修正する作業の多くがピールの責任になった。貨幣鋳造主任として秤に多くの改良を加えており、1847年、「フランクリン研究所の雑誌」に記事を書いた。これら秤のバランスは、0.0001トロイオンス (0.0031 g) 単位の微妙なものであり、気流や埃から板ガラスで保護されていた。
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