中学校・高等学校時代
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1945年3月10日の東京大空襲で生家が焼失。かつて父が病気で中退した、文京区大塚の東京高等師範学校附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に無試験入学するが、空襲で校舎が焼失していたため、再疎開先の新潟県高田市(現・上越市)の県立高田中学校(のち新制の新潟県立高田高等学校)に学んだ。在住先は中頸城郡(現・妙高市)。 1946年12月、東京に戻って青山の母方の実家に住み、東京高師附属中学に復学。このころ下町と山の手の文化的なギャップに開眼。中学では美術研究会に所属し、一学年上にのちの美術評論家の高階秀爾がいた。中学時代、神田の冨山房でシムノンと徳川夢声の著書を万引きしようとして店員に捕らえられ袋叩きにされたことがある。 1948年、東京高等師範学校附属高等学校(1949年に東京教育大学附属高等学校と改称、現・筑波大附属高校)に進む。同期には、嘉納行光(元全日本柔道連盟会長)、藤井裕久(元財務大臣)、鈴木淑夫(元日本銀行理事)、徳山明(元富士常葉大学学長)、中江陽三(元NHKアナウンサー)、吉田庄一郎(元ニコン会長)などがいた。 高校では、友人たちと4人で映画研究会を設立(メンバーのうち、銀行員になった荻昌孝(荻昌弘の弟)以外の2名は東宝のプロデューサーとなり、のちにクレージー映画で小林と共に仕事をした。2名のうちの一人は大森幹彦)。高校の文化祭「桐陰祭」では、アメリカ人劇作家"H・B・ガーガン"なる人物の作品と称して(実は架空の人間)自作の西部劇を上演したことがある。また、戦後再上映されたマルクス兄弟の映画を見て、そのアナーキーなギャグに衝撃を受ける。 1949年を「自分の人生で一番面白かった年」と後に語るが、1950年の朝鮮戦争の開戦により核戦争の恐怖にとらわれる。この時代のことは小説『世間知らず』に描かれている。なお高校の1年後輩には、『ニッポン無責任時代』などの脚本家となる田波靖男がいた。 同じ1950年、神保町のゾッキ本屋でさまざまな本を買う。『太宰治全集』で「人生の進路を決定」され、ヘンリー・フィールディングの『ジョゼフ・アンドルーズ道中記』で「英文科に進学する」こととなり、安藤鶴夫『落語鑑賞』で桂文楽独特の語り口を活字化する技術に衝撃を受けた。
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