中堅作家へのキャリアの積み重ね
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「モーリス・ルブラン」の記事における「中堅作家へのキャリアの積み重ね」の解説
ルブランはヴォコットには1894年まで毎夏滞在することとなる。1892年にはモーリス・ドネーに依頼され、この地で喜劇脚本「女の平和」を共同執筆するが、ドネーが共同執筆者である彼の名前を出さずに脚本を発表したことにより、ルブランは強く落胆する。けれども、同時期にエトルタで知り合ったマルセル・プレヴォー(英語版)は「ジル・ブラス」紙のヴィクトール・デフォセ会長を紹介、これによりルブランは「ジル・ブラス」にコラムニスト兼投稿小説家として採用される。10月3日には早速ルブランの短編「嘘だ!(副題:苦しむ人々)」が掲載され、これによりルブランの名が世に知れ渡るようになった。同日、第二訓練期間としてルブランは第11連隊に原隊復帰、10月30日まで再訓練を受ける。12月3日、かねてより入会を求めていた作家協会の準会員となる。これは「女の平和」におけるルブランの著作権を守るためにも必要なことであった。12月22日、グラン・テアトル(英語版)で「女の平和」の公演の幕が開かれる。1893年4月9日、「ジル・ブラス」で長編小説「Une femme」の連載が開始、5月23日にオランドルフ社より単行本が出版される。オランドルフ社からは1894年4月10日にも「Ceux qui souffrent」が出版されることとなる。1894年6月11日には「自転車」のタイトルで「ジル・ブラス」に時評が掲載される。1895年4月4日、セーヌ県裁判所において既に疎遠となっていた妻マリーからの離婚請求が認められ、4月27日に離婚が成立する。これに関し、ルブランは「ジル・ブラス」の時評で「あなたは、平凡なのです」と前妻マリーを評した。11月初旬にはオランドルフ社から「L’Œuvre de mort」が出版される。これは「クーリエ・フランス」や「新聞と本の雑誌」等の書評において絶賛を受けた。ルブランは「ジル・ブラス」以外の著名誌への掲載を望みはじめ、ポール・エルビュに「両世界評論」誌への口利きを頼むが、結局この試みは失敗に終わった。1896年3月、スポーツジャーナリストのピエール・ラフィット(フランス語版)が設立した自転車サークル「アーティスティック・サイクル・クラブ」に入会。これが後にルパンシリーズを生み出すきっかけとなる。5月12日には「ジル・ブラス」に「征服された自然」を寄稿、あらためて自転車への礼賛を示している。また同月、オランドルフ社から中短編集「Les Heures de mystère」が出版される。1897年初頭頃、夫エドワール・ウルマンと別居中であったマルグリット・ウォルムセールと出会い、交際を始める。4月末、オランドルフ社より「アルメルとクロード」が出版される。12月、「ジル・ブラス」に自転車を主題にした小説「Voici des ailes!」が掲載される。「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」の著者であるジャック・ドゥルワールはこの作品について、「ニーチェの響きが見出せる」「自転車は人に超人の生を与えるのだ」と評している。12月20日、当時発行部数65万部を誇っていた日刊紙「ジュルナル・デ・デバ(フランス語版)」に短編を寄稿。前後してコラムニストとして契約する。1898年2月、オランドルフ社より「Voici des ailes!」が出版される。この際、オランドルフ社編集長の依頼により匿名で新刊案内を作成。加えて、「スナップショット」と題するプロフィールも執筆したが、この中で「フロベールとモーパッサンの同郷人。彼らから貴重な助言を受けていた」と騙っている。
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