中堅将校による計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 16:38 UTC 版)
「1963年ベトナム共和国の軍事クーデター」の記事における「中堅将校による計画」の解説
1963年中頃に、一つのクーデター計画が陸軍大佐、少佐、海軍大佐といった中堅将校によって組織された。この計画は南ベトナムの諜報長官を務めていたチャン・キム・テュイェン(英語版)によって企図されていた。テュイェンは独立宮殿に勤務していたがジエム政権に不満を持ち、1962年の初頭から計画を練り始めた。彼は多くのコネクションを持った人物であった。この集団には、ド・マウ(英語版)や、戦略村計画(英語版)の推進者だが秘密共産主義者のファム・ゴック・タオ(英語版)大佐もいた。 テュイェンの集団はベトナム国民党や大ベトナム民族党(英語版)に所属していた多くの将校を抱えていた。彼らはジエム体制の非公開政党カンラオ党(英語版)所属の将校と比べて昇進面で冷遇されていた。ここには空挺師団(英語版)、海軍の司令官、第5師団(英語版)の戦車部隊も含まれていて、その殆どは大隊の位だった。 テュイェンの陰謀が暴露されると、彼はヌーによって追放された。マウとタオは計画を引き継いだが、7月15日に予定されていた彼らの最初のクーデター計画は、アメリカのCIAのエージェントルシアン・コネイン(英語版)がタオの上司で陸軍の最高司令官チャン・ティエン・キエム(英語版)将軍に対しクーデター計画が未熟であったという理由で中止させるように指導した時に握り潰された。タオとマウの集団は計画を再開し、10月24日に全体で3千人を集めた。彼らは反乱軍を合図兵団、輸送兵団や何人かの空軍パイロットといった補助部隊からどのように将校を配分するのかを議論した。マウはティエンの亡命を受けてキエムを助太刀した。マウはベトナム革命軍民戦線(MCFRV)として知られた軍部と民間の反体制派の仕分けの協力を得た。ベトナム革命軍民戦線は8月に別のクーデター計画を立てていて、彼らの指導者はマウのいとこだった。 タオによる10月24日のクーデター計画は、彼らの若い同僚がジエム支持派で第3軍団(英語版)を統率していたトン・ダット・ディン(英語版)将軍の助け無しに成功出来ないと上級将校達が判断した後に中止された。将軍達は彼らの重要な連隊の一つに共産主義者と戦う為に農村地帯へと向かわせる命令を出す事で、より若い将校達を妨害した。より若い将校達の計画はキエムとマウが両方の集団に関与していたので、将軍達のより大きな計画に統合された。 クーデターが完了した後、メディアは陰謀がテュイェンによって組み立てられて、将軍達の計画に若い将校達の計画が統合される前からタオはもっと前に進んでいたと知った。チャン・ヴァン・ドン(英語版)将軍はより若い将校達を逮捕させると脅迫したが、マウは彼らを保護して逮捕させなかった。
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