中国の居酒屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:01 UTC 版)
中国でこれまでに確認されている最古の酒の痕跡は、紀元前7000年頃の土器に付着していた酒粕である。内訳は米や葡萄、蜂蜜などの成分が含まれていた。当初は華北に殷や周の王都が建国されたため、麦栽培が盛んになる紀元前270年以前は黍や粟の酒が、それ以後は麦の酒が飲まれた。稲作は気象条件の都合上、華中と華南でしか栽培できなかったため、米の酒が流通するのは、秦の中国統一による紀元前3世紀頃と言われている。 その後、紀元前6世紀頃の春秋時代に布銭や刀銭、そして紀元前403年から紀元前221年までの春秋戦国時代にかけては青銅貨の円銭が流通した。これら貨幣経済の誕生と共に居酒屋や酒類を提供する宿屋は誕生したと見られている。古代中国では、民衆の酒盛りは禁止されており、漢の法律には『三人以上故なくして酒を群飲すれば、罰金4両』と規定されていた。ただし、国家の慶事の際には民衆の宴会は許されたようである。このことから古代の居酒屋は、富裕層向けに特化した店だったようである。 その後居酒屋は、唐代の頃になると、各都市部に庶民向けの店が出始め、「酒肆(しゅし)」や「酒楼(しゅろう)」、「酒家(しゅか)」などと呼ばれた。これらは、当時の詩人であった李白や杜甫によって歌に詠まれている。各都市の街道沿いには宿屋を兼ねる居酒屋が軒を並べ、看板である「酒旗」を掲げ、ウイグル系の酌婦などが働いていた。当時は夜間の営業が禁止されており、深夜営業は宋朝の時代まで待たなくてはならなかった。またこの唐の時代に、詩人の王翰が葡萄酒を歌に詠んでいるが、ワインのような代物ではなく米と葡萄汁をブレンドした醸造酒だったようである。その後はアラビアから蒸留酒が伝来し、「白酒(パイチュウ)」と呼ばれて富裕層が嗜んだ。蒸留酒が庶民に出回るのは20世紀になってからである。 宋の時代になると居酒屋は「酒壚(しゅろ)」と呼ばれるようになり、12世紀初頭の北宋の頃には、酒を蒸気で蒸して加熱殺菌する世界初の試みがなされている。居酒屋が庶民に広がった頃、同時に仏教の寺院等で茶館と呼ばれる飲茶の文化が広まった。居酒屋の持つ多機能性は茶館に集約され、共産党による一党支配がなされるまで、その機能を維持し続けた。現在では「酒家」はレストランを差し、「居酒屋」は日本から逆輸入されて使用されている。
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