中国の専売制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 04:58 UTC 版)
春秋時代、斉の桓公から国家財政の収入を増やす方法を問われた宰相の管仲は、民に塩を生産させて税として集め、国家が販売する方法を提案している。これが、中国における塩の専売の嚆矢であるとみなされることがある。 前漢の武帝は、匈奴との戦いで逼迫した財政を再建するために鉄や塩などの専売を行った。これには国家が利益追求を行って庶民から財を貪るものだとして儒学者から反対の声が上がり、次の昭帝の代にはこの政策の賛否を巡る論争会が開かれた(この論争を纏めたのが『塩鉄論』であると言われている)。 『三国志』で著名な蜀でも諸葛亮が塩の専売による財政充実を行ったことが知られている。また、同国の将軍・関羽が中国最大の鹹湖である「解池」がある河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮)の出身であったために、元々は塩の密売人であったという伝説が伝えられ、そこから後に関羽を「商売の神様」とする考えが生まれたと言われている。 唐の中期、安史の乱で財政が逼迫すると、第五琦の案によって塩の専売が行われた。後に中央政府の政策となって一時は財政収入の半分を占めるまでとなった。だが、専売制実施前には1斗あたり10銭であった塩の価格が専売制実施後には110銭に引き上げられ、更に財政逼迫の度に値上げされた事から人々の生活は困窮して黄巣の乱が勃発する。首謀者の黄巣も元々塩の密売人であった。 北宋に入ると、人々の生活必需品となった茶が専売品として追加されて塩と並ぶ重要な財政の基盤となった。だが、同時に政府財政が逼迫すると安易な値上げや品質の引き下げなどが行われて、人々を苦しめる事となった。そのような状況の下で、塩などの密売人が各地に出没するようになる。政府は死刑をもって取り締まろうとするものの、専売品があまりにも高価で劣悪過ぎたために却って良質な密売品の方が値段が安くなったために、密売品販売による利益は厚く、誘引となったために根絶する事が出来なかったという。 中国は海岸線こそ広いものの、領土が奥地に広がっていることや人口が膨大なために、多くの人々が直接塩を手にする機会に乏しかった。また、生産地が限定されていた茶についても同様のことが言えた。それを利用した専売政策は形を変えながらも辛亥革命以後にまで継続されたのである。 1949年の中華人民共和国成立後には、酒類と加工済みのタバコ製品及び関連するタバコの葉、フィルタートウ、タバコ用紙、タバコ製造機械などが専売品となっている。酒類は1980年に国家による専売制を廃止したが、その後偽造酒による死亡事件、傷害事件が相次いでおり、復活を検討する動きもある。酒類の専売廃止後も塩の専売は維持されてきたが、2014年11月の報道によれば、2017年までに段階的に廃止していく方針であるとされる。 なお、現代中国語において「專賣」という言葉は、専売制の他に、特定の商品に絞った専門販売、専門店という意味でも使われているので注意が必要である。
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