中南太平洋での戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 23:09 UTC 版)
「最上 (重巡洋艦)」の記事における「中南太平洋での戦い」の解説
1943年(昭和18年)4月末に工事は完了した。第一艦隊に配属された後、5月1日に佐世保から呉に回航し、17日に第三艦隊第七戦隊に復帰した。アリューシャン方面作戦のため横須賀に移動後、再び内海西部へ戻った。6月8日、柱島泊地で戦艦陸奥の爆沈に遭遇、米潜水艦の奇襲と判断して対潜攻撃を行うが、誤って爆雷2個を投下した。 6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を始めた。7月8日、第三艦隊(小沢治三郎中将)指揮下の空母4隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳、沖鷹)、水上機母艦日進、重巡3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡2隻(大淀、阿賀野)、駆逐艦6隻(嵐、萩風、磯風、涼月、初月、玉波)は内地を出撃、15日にトラック泊地に到着した。このうち玉波を除く駆逐艦と巡洋艦はラバウルに進出したが、萩風と嵐をラバウルに残して他はトラックに戻った。以後、最上は主に中部太平洋で行動した。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 ブーゲンビル島の戦いを支援するため第二艦隊(栗田健男中将)の指揮する遊撃部隊(重巡愛宕・高雄・摩耶・鈴谷・最上・筑摩、軽巡能代、駆逐艦藤波・早波・玉波)が11月5日にラバウルへ進出したが、直後に米機動部隊(サラトガ、プリンストン)による大規模な空襲を受けた。最上は爆弾1発を1-2番砲塔間の上甲板右舷に被弾し、戦死19名、負傷者37名(または41名)を出した。前部右舷水線付近に破孔が生じたため高速を出すことができず、昼間は12ノット、夜間は10ノットでトラックへと向かった。8日に鈴谷、駆逐艦島風・玉波と共にトラック泊地に戻り、明石の支援で修理を行った。12月16日、駆逐艦霞・玉波と共にトラック泊地を出発。最上と玉波は21日に呉に到着し、最上は22日から呉工廠で修復に入った。1944年(昭和19年)1月1日、第七戦隊から外れた。 2月17日に修理が完成し、3月8日に物資を搭載して呉を出港、シンガポールを経て16日にリンガ泊地に到着した。同日、第七戦隊(利根、筑摩、熊野、鈴谷)に復帰し、23日に同戦隊第二小隊4番艦となった。25日、戦隊司令官に白石萬隆少将が就いた。 6月中旬のマリアナ沖海戦で最上は小沢機動部隊に配備された(編制はマリアナ沖海戦参照)。24日、呉に帰投した。7月8日に呉を出撃し、20日にリンガ泊地に進出。重巡妙高・羽黒と訓練を行った。
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