両班階級の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:26 UTC 版)
李氏朝鮮を建国した李成桂は、高麗の制度の欠陥を見直すことにし、まず地方で大きな権力を握っていた郷里の追放を試みた。郷里出身の文臣を官僚から追放し、科挙の受験資格を大幅に制限した。代わりに高麗末から擡頭してきた新興儒臣や在地地主などの地方両班などを中心とした勢力が対抗勢力として台頭した。この勢力が今の両班階級のもとになる。 李氏朝鮮の制度改革により、従来、文臣と武臣を指していた両班は、科挙(文科と武科)を受けることの出来る身分を指す言葉になっていく。 李氏朝鮮の科挙制度は、文人を出す文科と武人を出す武科で構成され三年に一度行われていた。それ以外にさまざまな専門技術職を選抜する雑科が存在した(ここで言う技術職とは、日本語や中国語の翻訳技術、医学・陰陽学などの特殊な技術に長けた者の事を指す)。科挙は基本的に良民全体に門戸が開かれていたが、これを受験するためには、それなりの経済力が必要となり、必然と文科や武科の科挙試験を合格し官僚になれたのは、これら両班階級が大多数だった。こうして李氏朝鮮では、両班階級が事実上官僚機構を独占し、特権階級になっていった。 やがて両班を一番上に、中人(チュンイン・雑科を出す階級)、常民(農民)、賤民と言う四段階の身分制度ができあがった。常民以上を良民と呼び、賤民は良民に戻る事が可能な奴婢(ノビ)とそれも不可能な白丁(ペクチョン)で構成され、居住や職業、結婚などに様々な制約が加えられていた。奴婢は国が所有する公奴婢と個人が所有する私奴婢にわかれ、市場で売買などが行われた。白丁は、稀に賤民から良人になったケースもあるが、稀有な例である。賤民は八賤、七賤とも言われ、白丁以外には、僧侶、巫堂(ムーダン)、妓生(キーセン)などが含まれる。 これら両班は、李氏朝鮮の国教になった儒教の教えのもとに労働行為そのものを忌み嫌うようになった。これが「転んでも自力では起きない」「箸と本より重いものは持たない」と言われる両班の成立である。 李氏朝鮮初期の両班は人口の約3%に過ぎなかったと言われている。しかし、慶長の役や後金の役により身分制度が流動化し、李氏朝鮮末期には国民の相当多数(地区によっては7割以上)が戸籍上両班階級だった。現代の韓国人で、祖先が両班でないという人は珍しい。ただし、北朝鮮では逆に両班という人は少ない。これは両班がブルジョワジーに属し、共産主義体制の中では労働階級の敵とされるからである。
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