両班私軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
戦争初期に郭再祐が私兵を徴募した。武装集団は一部の地方で労役や戦闘に参加した。両班の私兵は主に朝鮮正規軍の敗残兵、常民出身、両班が所有する奴婢、李朝社会では賤民と見做されていた僧兵から構成された。 文禄の役の間、朝鮮半島の中では全羅道だけが侵攻を免れた地域として残されていた。各地で敗走した朝鮮軍が全羅道へ集まり、10万を超える軍を擁していたためであり、その後も敗残兵が全羅道へ集まる傾向は続いた。 郭再祐の挙兵は反乱と見なされ、朝鮮官軍との間で戦闘が起こっている。朝鮮の民衆は、朝廷から課される築城などの土木工事、武器・兵糧の運搬などの労役 を厭った。李朝朝廷は郭再祐に対して官職を授ける措置をとり官軍の補助を認めたが、一方で李朝朝廷は郭再祐軍を巡察使等の指揮下において統制した。しかし、文禄の役後の休戦期間に郭再祐軍の漢城襲撃で、李朝朝廷はその危険性を認識し統制を強め、末期には官軍に組み入れられ独立した部隊ではなくなった。 戦後、いわゆる義兵は不遇であった。
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