両班の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:26 UTC 版)
高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の2つの班からなる官僚制度を採用した。2の事を両と言う字でも表すためこの2つの班を会わせて両班と呼んだ。朝儀に際して両班が東と西に並んだことから、東に列した文班を東班、西に列した武班を西班とも称した。 文班(文臣、東班)は、958年から科挙制度を採用し、科挙の合格者を官吏として登用する制度を取った。しかし、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれる蔭叙が行われ、当初から上級官僚の貴族化を促していた。しかし地方では新羅以来の郷里という制度が残され、官僚が入り込めない土着した勢力がその地方を束ねていた地域も多くあった。この郷里達は多くの官僚を中央にも送り出していた。これらの層が高麗の門閥貴族を形成する。 武班(武臣)は、995年ごろに六衛(軍団)が整理されたのを起源とする。5つの方面軍を統括して国防を担当する軍事官僚だが文官の東班より格下とされた。日本の武士と同じ機能がある軍事官僚である。それよりやや遅れて禁軍である二軍が成立される。この武班は基本的に世襲制もしくは兵士からの選抜制になっており、後の軍隊の私兵化の温床となることになった。 両班には国から田地と柴地が支給されており(田柴科制と言う)、官僚機構を指す言葉だった。高麗時代の両班はそれ以降の両班とはやや意味合いが異なる。
※この「両班の由来」の解説は、「両班」の解説の一部です。
「両班の由来」を含む「両班」の記事については、「両班」の概要を参照ください。
- 両班の由来のページへのリンク