両派対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 14:13 UTC 版)
フランクフルト国民議会で、ドイツ統一を巡る方針として、主に二つの選択肢があった。オーストリアを含めた「大ドイツ主義」、オーストリアを含めない「小ドイツ主義」である。当初のこの両主義に大差はなかった。ドイツ人あるいはドイツ系の居住地を含めて統一国家を建設するという考えでは、一致していたからである。国民議会では、この大ドイツ主義の統一方針が圧倒的に支持されていた。しかしオーストリア政府は、ハンガリー人をはじめとする非ドイツ系諸民族を包含する多民族国家であり、ドイツ人のみの統一国家を造ることは、非ドイツ人居住地との分断を招くとして、強く反対した。この方針が採用されれば、「オーストリア帝国」という概念が揺らぐことになる。それは帝国の解体を意味した。 結果的にフランクフルト国民議会では、オーストリアは脱落した。しかしドイツ統一を巡る問題は、むしろ高まり、それはドイツにおけるナショナリズムに結びついた。この問題については、プロイセン王国に後塵を帰したが、オーストリアにおける大ドイツ主義は消滅したわけではなかった。1860年代に再び活発化し、南ドイツのカトリック勢力と結び付きを深める。大ドイツ主義は、再びプロイセン主導の小ドイツ主義に並び立つ。カトリック教会は、政治的に多大な影響力を保ち、北ドイツのプロテスタント勢力に対する反発から、オーストリア主導の大ドイツ主義を支持した。 かかる背景の元、両主義は対立を深めていったものの、ドイツ統一と言う目標では一致していたため、当初のドイツ統一戦争では共同関係を保つことは可能であった。1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、共闘してデンマークからシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を割譲させることに成功した。
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