三島賞受賞・神経症を病む
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「車谷長吉」の記事における「三島賞受賞・神経症を病む」の解説
1983年6月、担当編集者の前田速夫からの強い呼びかけもあり、東京へ戻る。1983年から西武流通グループ広報室に嘱託社員として勤務(1985年から西武セゾングループ五十年史編纂委員会事務局に転勤)して生計を立てながら執筆をする。1985年「吃りの父が歌った軍歌」(『鹽壺の匙』所収)を『新潮』に発表すると白洲正子から作品を絶賛する私信を受け取る。以後、白洲が死ぬまで目を掛けられ続け「私の生き方を継いで欲しい」と遺言を受けている。 1993年、苦節20年にして初の単行本『鹽壺の匙』を上梓する。表題作では、車谷の故郷の播州飾磨を舞台として、語り手の叔父が自殺を遂げるまでの内面が、没落地主階級の社会的・歴史的厚みの中で精細に描かれた。高い評価を受けて第43回芸術選奨文部大臣新人賞(平成4年度)と第6回三島由紀夫賞を受賞 する。吉本隆明、江藤淳から絶賛された。1993年、詩人・高橋順子と結婚する。 1995年、人員整理でセゾングループを解雇され、キネマ旬報社嘱託社員 として、『キネマ旬報』の校正の仕事につく。同年、短編「漂流物」で第113回芥川賞候補となるが落選する。作者を模した語り手が、料理人時代の同僚から身の上話を聞かされて、少年の殺害を告白されるという内容の作品である。当時の『日本経済新聞』に芥川賞の選考経過の記事が出て、「漂流物」が本命視されていたが、題材の不条理殺人事件が、物情騒然たる時代に社会不安を助長するかもしれないとされて、時の運で落選した、ということが書かれた。後に直木賞受賞後第一作として発表された短編「変」(『金輪際』所収)では、この年の出来事が描かれ、落選の報を受けた日の真夜中、選考委員の名を人形に書き、丑の刻参りに行ったと書いているが、これは虚構である。 1996年、芥川賞落選の失意から、強迫神経症を発症する。幻視、幻聴、幻覚に襲われ、一日、五百回から六百回手を洗っていた。この時期の発病とその後の経過については短編「飆風」(『飆風』所収)に詳しく綴られている。また、この時の夫婦の状況を題材にして、妻の高橋順子は詩集『時の雨』を刊行して、翌年に同作品で読売文学賞を受賞している。1996年、西武セゾングループ資料室に復職、週二日の勤務となる。1997年に単行本『漂流物』で第25回平林たい子文学賞を受賞している。
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