三島市長と池子問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 04:31 UTC 版)
1938年に大日本帝国海軍が弾薬庫を設けたことに由来する池子弾薬庫は、占領期にアメリカ陸軍が接収し、以降、地元では長く返還運動が取り組まれていた。三島が助役だった1970年には、池子弾薬庫の従業員全員が解雇され、施設はアメリカ海軍に移管されて、いわば遊休化することとなり、これを受けて、1971年には逗子市議会が弾薬庫敷地の全面返還お促進を求める決議を行なった。その後、三島が市長となる少し前の1973年春から1977年秋まで、小規模な弾薬の搬入出が行なわれ、1978年7月に施設は事実上の閉鎖状態となった。 1977年の時点で、逗子市議会の議決を受け、三島市長は、当時構想中であった「昭和記念公園」の池子地区への誘致を、当時の福田赳夫首相に要請するといった活動をしており、国営昭和記念公園が立川基地跡に決定した後も、池子弾薬庫の全面返還と一体となった構想として、逗子葉山国営自然大公園の誘致運動に取り組んでいた。1978年の池子弾薬庫の事実上の閉鎖を受け、三島市長は直ちに、長洲一二神奈川県知事、飛鳥田一雄横浜市長と連名で、防衛庁、防衛施設庁、外務省、駐日アメリカ合衆国大使館などへ、施設の全面返還を求める働きかけを行なった。無投票での3選が決まった1981年の市長選挙に向けて準備された三島の公約「市政の5つの柱」には「池子弾薬庫の返還と国営自然大公園の誘致」が掲げられた。 1982年8月26日、横浜防衛施設局は神奈川県と逗子市に対し、池子弾薬庫を米軍家族住宅建設の「有力な候補地」として調査する旨を文書により通知し、これに関して塩田章防衛施設庁長官は、具体的な計画の規模や時期にも言及した。三島市長は、長洲知事とともに同日中に共同談話を発表し、計画に反対することを表明した。以降、逗子市では、三島市長、市議会、市民が一体となった住宅建設反対、施設の早期全面返還を求める運動が展開されることとなった。 1983年7月20日、防衛施設庁は神奈川県と逗子市、横浜市に対し、池子弾薬庫を米軍家族住宅建設の適地と判断し、1000戸程度の住宅、および、関連施設 を建設することを文書で通知した。三島を含め、各首長、地元議会は、当初これに反発したが、国側は、地元への協力要請を繰り返し行なった。 1984年3月6日に至り、三島市長は、市議会本会議の施政方針演説、住宅建設について、「双手を挙げて賛意を表するものではないが、諸般の事情により現状止むを得ないものと判断」したとして、条件付き受け入れの方針を表明した。三島市長は、市議会多数派の同意を取り付けた上で、6月5日に防衛施設庁に33項目の条件を付して、住宅建設に協力する旨を回答した。 住宅建設に反対する住民運動の中心となっていた「池子米軍住宅建設に反対して自然と子供を守る会」(通称「守る会」)は、建設受け入れを容認した三島市長のリコール運動を8月から展開し、三島市長は「全面返還がありえない状況の中で最善の道を選んだ」として、この動きを牽制した。当初、三島市長を支持していた逗葉地区労や日本社会党はリコール運動支持に転じ、市内在住の渡辺保男国際基督教大学学長ら79人がリコール支持の文化人アピールを発表した。リコールが成立確実と目される情勢となった中で、10月6日に至り、三島市長は、市長選挙で住宅建設受け入れの是非を問うとして、自ら辞職した。
※この「三島市長と池子問題」の解説は、「三島虎好」の解説の一部です。
「三島市長と池子問題」を含む「三島虎好」の記事については、「三島虎好」の概要を参照ください。
- 三島市長と池子問題のページへのリンク