トーマス・J・ワトソン研究所
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トーマス・J・ワトソン研究所(トーマス・ジェイ・ワトソンけんきゅうじょ、Thomas J. Watson Research Center)は、IBMの研究部門の本部である。研究所の名称は、1915年から1971年までIBMを社長・CEOとして率いていた、トーマス・J ・ワトソン・シニアとその息子トーマス・J ・ワトソン・ジュニアの名前に因んだものである。
この研究所は二つの敷地に分かれて建っており、主要な研究所はニューヨーク市から北へ70kmほどに位置するニューヨーク州ヨークタウン・ハイツ(Yorktown Heights)にある。他はマサチューセッツ州ケンブリッジ(Cambridge)に位置している。
ここでの研究内容は、人工知能、物理学や半導体技術などコンピュータ・ハードウェアに関するもの、ビジネスモデルやコンサルティング、経営などサービス業に関する研究、プログラミング言語やセキュリティ、データ管理などといったソフトウェアに関連するもの、OSやサーバといったシステム関連の研究と、多岐にわたる。
トーマス・J・ワトソン研究所は1945年、ニューヨーク市にあるコロンビア大学のウォーレス・ジョン・エッカートの研究室にIBMが出資し、ワトソン科学計算研究所(Watson Scientific Computing Laboratory)としたのに始まる。この施設は1953年に拡張され、1957年にはヨークタウンハイツに本部を移転し、1961年にはEero Saarinenによる設計の新しい研究所が完成した。1945年以来の施設は1970年に閉鎖、後にこの建物はコロンビア大学に譲渡され、現在ではCasa Hispanica(ヒスパニックの家の意)とワトソン・ホールとして知られている。更に1984年にはホーソンにも施設が拡張された。
この研究所で働いた著名な研究者には、数学者のブノワ・マンデルブロ、グレゴリー・チャイティン、Shmuel Winograd、物理学者の江崎玲於奈、発明家のRobert Dennard、コンピューター学者のジョン・コック、Stuart Feldman 、Irene Greifらがいる。
施設
ヨークタウン・ハイツ
ヨークタウン・ハイツの研究所は私有地に建てられており、通常一般人は入ることができない。建物は巨大な三日月型をした三階建てのビルで、内部に40もの廊下をもつ。一階は三日月の先端部分が半地下室になっており、その先は職員向けの駐車場になっている。建物の正面入り口には巨大な突起物が突き出ており、入り口正面には来訪者向けの駐車場がある。ビルの内部には図書館の他、カフェテリアも設けられている。
ケンブリッジ
ケンブリッジの施設はかつてIBMのロータス・ソフトウェア開発部門が置かれていた施設を利用している。ここではXMLに関する技術などが研究されている。現在は、MIT と IBM Researchの共同研究所である MIT-IBM Watson AI Lab の拠点でもある。
ホーソン
ホーソンの施設はスカイライン・ドライブと呼ばれる産業地区に、いくつかの地元企業とともに入居している。ここの研究施設はミラーガラスと巨大な青い柱という外見上の大きな特徴があるため、容易に見分けることができる。ニューヨーク市から北に40kmの位置にあり、ヨークタウン・ハイツのそれと比べれば小規模な施設である。ここではソフトウェア及びサービス業に関する研究が行われており、化学や物理学、半導体技術の研究を中心とするヨークタウン・ハイツの施設とは研究内容に差が見られる。ビル内には図書館、カフェテリアに加えプレゼンテーション・センターも置かれている。このビルのデザインはMichael Harris Spectorによるもので、開館は1984年である。2020年現在において、ホーソンは閉鎖となっている。
関連項目
- IBM
- IBM東京基礎研究所 (TRL)
座標: 北緯41度12分36.7秒 西経73度48分10.8秒 / 北緯41.210194度 西経73.803000度
ワトソン研究所
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「ウォーレス・ジョン・エッカート」の記事における「ワトソン研究所」の解説
戦後、エッカートはコロンビア大学に戻った。そのころワトソンは、ハーバード大学で行われていたIBMが出資したプロジェクト(Harvard Mark I)を巡ってハーバード大学と対立していた。IBMはその代わりにコロンビア大学に資金を集中させることになり、エッカートの研究室はワトソン科学計算研究室と名付けられた。エッカートは、長時間の計算を人手を介さずに行う科学計算の利点を痛感しており、それが自分の研究室の意義であると理解していた。 1948年1月、マディソン・アベニューにあるIBM本社ビルの1階ショールームに、エッカートが提案した仕様に基づく巨大な機械が設置された。この機械はSelective Sequence Electronic Calculator(SSEC)と名付けられた。この装置は計算装置としてある程度の成功を収めただけでなく、新たな顧客や従業員をIBMに惹き付ける役割を果たした。エッカートは1948年11月にSSECに関する論文を発表している。 エッカートはIBMの従業員として、アメリカ初の工業研究所を指揮した。1945年、エッカートは、次世代のIBMを担う研究者としてハーブ・グロッシュ(英語版)とルウェリン・トーマス(英語版)を採用した。この2人はともに、IBMに多大な貢献をした。1949年にカスバート・ハード(英語版)がIBMに採用され、エッカートの後任をオファーされたが、彼はその代わりに応用科学部門を設立し、後にIBM初の商用プログラム内蔵方式コンピュータ・IBM 701の開発を指揮した。 1954年には、海軍装備局向けのコンピュータ・NORCの開発の指揮を執った。 この時期には、SSECによるブラウンの月運動論(英語版)の確認、改良された月の天体暦を開発、外惑星の天体暦を計算するための初の数値積分、SSECやNORCによる小惑星等の軌道計算など、計算天文学への革新的な貢献を続けた。 1957 年、ワトソン研究室はニューヨーク州ヨークタウンハイツ(英語版)に移転し(1961年に新しい建物が完成)、IBMのトーマス・J・ワトソン研究所となった。 1966年に米国科学アカデミーからジェームズ・クレイグ・ワトソン・メダルを受賞した。
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