ローガン・ロック
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「ロッキングストーン」の記事における「ローガン・ロック」の解説
ロッキング・ストーンまたはローガン・ストーンのもう1つの有名な例は、コーンウォールのトリーン(Treen)のローガン・ロック(Logan Rock)である。この巨石の重さは約80トンまたは90トンである。それはいくつかの理由でいちばん有名なロッキング・ストーンの1つである。たとえば、モッドレッド(Modred)は、ウィリアム・メーソン(William Mason)の劇詩「Caractacus」の中で、登場人物ヴェリヌス(Vellinus)およびエリドゥルス(Elidurus)に話しかけながら、ローガン・ロックについて言う―― Thither, youths, Turn your astonish'd eyes; behold yon huge And unhewn sphere of living adamant, Which, poised by magic, rests its central weight On yonder pointed rock: firm as it seems, Such is the strange and virtuous property, It moves obsequious to the gentlest touch Of him whose breast is pure; but to a traitor, Tho' ev’n a giant’s prowess nerv’d his arm, It stands as fixt as Snowdon. そちらへ、若者たちよ、 あなたがたの仰天した眼を向けよ。見よ、巨大な そして断固として生きている、切り刻まれていない領域を、 あれは魔法で釣り合い、あそこの尖った岩に 真ん中の重みを休めている――見かけは固い、 あれは奇妙で高潔な財産だ、 あれは乳房が純粋な者の、 どれほど優しい接触にもへつらい動く。しかし裏切り者には、 巨人の武勇がその腕を勇気づけてさえ、 スノードン山なみに固定されている。 しかしながら、トリーンのローガン・ロックが記憶されているもう一つの理由は、それが有名なドラマの中心だったということである。1824年4月に、RNの中尉ヒュー・ゴールドスミス(Lieutenant Hugh Goldsmith, R. N.)(有名な詩人オリヴァー・ゴールドスミスの甥)と、バーとレバーで武装した(armed with bars and levers)カッター『Nimble』の乗組員の10人または12人が巨大な花崗岩を揺り動かし、ついに崖の上の高所から落ちた。ゴールドスミスは明らかにウィリアム・ボーレーズの主張に動機づけられた。彼は1754年に『Antiquities of Cornwall』に書いた―― S. Levan 教区には、Castle Treryn と称する岬がある。この岬は、明確な岩グループ3つから成る。上部近く真ん中のグループの西側には、非常に大きな石が横たわり、どの手もそれを前後に動かせるように均等に釣り合いをとっていた。しかし、その基礎の端は互いに距離があり、それが伸びている石への近さでしっかりと固定されているために、どんなレバーが、または実際に力が、機械的な方法で加えられても、それを現在の状況から移動させることは、まずありえない。 ゴールドスミスは、イギリス船員の勇気と技術がかかわったとき不可能なことは何もないと実証する決意であった。ローガン・ロックは落ち、狭い割れ目にとらえられた。 ローガン・ロックは観光客らをこの地域に引き寄せるために使用されていたために、これは地元住民をかなり動揺させた。Sir Richard Vyvyan, 8th Baronet (1800–1879) は、とりわけ不幸であった。彼らは、中尉ゴールドスミスが自費で岩を元の位置に戻さないかぎり、イギリス海軍本部が彼からイギリス海軍の士官の地位を剥奪することを要求した。しかしながら、ミスタ・デーヴィス・ギルバート(Mr. Davies Gilbert)は Lords of the Admiralty を説得し、ローガン・ロックを戻すために必要な装置を中尉ゴールドスミスに貸させた。海軍本部 (イギリス)はプリマスのドック・ヤードからブロックとチェーンとともにキャプテン13人を送り、費用25ポンドを寄付した。ギルバートもまた、より多くの資金を調達した。 複数月の努力の後、1824年11月2日午後4時20分に、ローガン・ロックは、観客数千人の前で、男60人超と滑車の助けを借りて、最終的に再配置され、「ロッキング状態」("rocking condition")に戻った。あきらかなことに、この企ての総最終経費は、130ポンド8シリング6ペンスであった。しかしながら、残り105ポンドのうちどれだけ、ゴールドスミスが自分のポケットから補わなければならなかったかは明らかでない。 その後しばらくの間、岩は鎖でつながれ、南京錠がかけられたままであったが、しかし最終的にこれらの制限が解除され、岩は解放された。しかしながら、明らかにもはや以前ほど簡単に震えあるいは「ログ」しない。 観光業は衰退し、これはローガンロックの条件で非難された。しばらくの間、トリーンは「ゴールドスミスの廃村」('Goldsmith's Deserted Village')というニックネームで呼ばれていた。 もう1つの有名な岩構造、ランヨン・クロムレック(Lanyon Cromlech)は、1815年の激しい雷嵐でこわされた。トリーンのローガン・ロックを復元するために使用されたのと同じ機械装置がしゅびよく、Lanyon Cromlechを再配置した。
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