ロッキード事件の発覚と離婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:19 UTC 版)
「榎本三恵子」の記事における「ロッキード事件の発覚と離婚」の解説
しかし1976年2月5日、ロッキード事件が発覚して、報道には頻繁にIの名前が出るようになる。自分の忠告通り榎本敏夫とIとは関係が絶たれていると思って三恵子は安堵していたが、事件の発覚以降それまで途絶えていたIから毎朝、電話がかかってくるようになる。そして後の裁判で行った証言の核心部分でもある、夫の5億円授受を肯定したという車の中での会話の後、榎本敏夫の日程表の焼却等の証拠隠滅を行った。後にマスコミから批判されるこの時の行動を「榎本家の財産を国税局に洗われて、追徴金で持っていかれるのが怖かった。三人の子供がいて何をするにもお金がいる。法に触れるのは確かだが、わが家を維持していくという使命とは別物」と語っている。その時すでに離婚の意志を固めていた三恵子は、焼却炉の煙突から登る煙を見ながら『これが私のしてあげる最後のご奉公、これからは一人で戦ってください』と思ったという。その他に国税庁が動くと察知して脱税に引っかからないため、家の中に保存していた夫の趣味である計二十点、時価一億円にものぼる絵画をトランクルームに隠したり、五千万円相当の有価証券、預金などを都内の銀行を転々と移動させるなどして管理する。別れるためのはっきりした理由はなかったが、『人形の家』(イプセン作)のノラになぞらえ、「こういう毎日だけじゃなく、もっと充実した人生があるんじゃないか?」とその時の心境を語っている。しかし具体的に挙げた理由が一つあり、榎本敏夫の隠し預金口座を見たら、本人の兄弟姉妹、子供たちの名義はあるが、妻である自分の名義のものが一つもなかったことが大きく、結局、夫は10年間連れ添った自分を妻として認めていないことがわかり、決定的に気持ちが醒めてしまい、5月には離婚を前提に一方的に家を出る。そして榎本家のすぐそばの夫名義のマンションの部屋に住み、そこから毎日、子供たちの食事の世話に通う。 7月27日に田中角栄と共に榎本敏夫が東京地検特捜部に外為法で逮捕される。高血圧を理由に病院にいた夫の元に検事が来た時、三恵子はその場に立ち会っており、あらかじめ子供達のために何もしゃべらなければ父親としては立派だし、もう一度やり直してもいいと夫に言い含めていた。 「口を割ったら子供たちの人生も狂う。逮捕されても絶対しゃべってはだめ。一言も言わないで出て来てくれたら、私は家に帰ります。公判とかマスコミ対策は一緒に戦いますから」 と夫をいさめていたものの、逮捕二日後に榎本敏夫は五億円の授受を自白してしまう(公判段階では否定する)。翌日そのことを砂防会館内で弁護士から聞かされた三恵子は裏切られたという気になり、離婚の意志を確固としたものにする。そして小菅の東京拘置所に毎日のように通うが、面会は許されなかった。私が小菅に通っているとこを夫が目にすれば、喋ってはだめという約束事の無言の意思表示になると思ったと手記には書かれている。 8月17日、田中角栄と共に保釈された夫と三週間ぶりに病院で対面し、「君の言うとおりだった。もう一度一緒にやり直したい」と土下座までして離婚は考え直すように懇願されるが、拘置所では絶対にしゃべらないという約束を反故にされたことから、三恵子は「もう手遅れでしょう」と拒絶した。
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