ルールから世界へ
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長い交渉を経て、1930-1931年にふたつの大企業を買収した。Holzverkohlungs-Industrie AG とVerein für Chemische Industrie である。特に前者は活躍した。交渉の間に接着剤のアトラス・アゴを開発したが、買収されてからもメタノール・ホルムアルデヒド・ペンタエリトリトール・アクロレインを順に次々と量産化した。ウイスキーをつくるDistillers Company と合弁で1928年にBritish Industrial Solvents Ltd. を設立し、アセトン・アセトアルデヒド・酢酸・ブタノールを量産したが、燃料に混ぜる使い道から需要が増して事業は成功した。1932年にデグサはカーボンブラックの工場を買収した。これはガスを不完全燃焼させて製造した。経産省が国内原料だけで作れと言ってきたので、研究して成功させた。翌年に世間のアーリア化という仕打ちからユダヤ人オーナーをかばう形でChemisch-Pharmazeutische AG Bad Homburg を買収した。 ハインリヒの息子フリッツが1937年に死んだ。なお、同姓同名のナチス党員がいた。 戦中、デグサはしばしば軍事徴収を受けた。戦後、通貨改革までは再建が滞った。経済力の集中排除を目的とした、技術と流通両面での査察を占領軍に受けた。フランスの事業も収用された。1952年にIG ファルベンのカルテルが分解され、翌年にデグサの本社がフランクフルトに建てられた。それからデグサはシアン化水素工場を増やしていった。やがてメタンとアンモニアをつくるようになった。そしてアミノ酸メチオニンとシアヌル酸クロリドを発見した。サンパウロにブラグサという子会社をつくり、1955年に稼動させた。1960年代の早くに交通の便がよいヴォルフガング(ドイツ語版)へ市場調査をする子会社を置いた。世界でユーロ債市場が軌道に乗ってきた1972年、貴金属精錬業などもヴォルフガングへ拠点を移した。そして1970年ごろに大々的な進出先となった場所というのが、ベルギーとアントワープである。はじめ過ホウ酸ナトリウム、アエロジル、シアン化水素酸、シアヌル酸クロリドを製造していた。1974年、久しぶりにアメリカへ工場を建てた。塩化ケイ素、アエロジル、メチオニン、シアヌル酸クロリド、枯葉剤のブラデックス、過酸化水素、ホルムアルデヒド、そしてシアン化水素をモービル (アラバマ州) で製造した。また、BASF との共同事業でポリオキシメチレンもつくった。合衆国市場へデグサの海外投資は傾いたが、おかげで触媒コンバータ、親水性シリカ、ニコチンアミドをつくれるようになった。1988年からは巨大なカーボンブラック工場を3つも建てた。そしてアメリカでも金属工業を展開した。製薬部門も伸張した。1983年、抗がん剤のAsta Werke AG を完全に買収した。1987年に国内外の製薬部門をもれなく、フランクフルトのAsta Pharma AG に統合した。同年、ボルドーのSarget S.A. を買収した。この企業は欧州内に子会社をいくつかもっていた。製造品目は鎮痛剤、心疾患治療薬、消毒薬、ビタミン、アミノ酸製剤であった。日本などのアジア諸国が豊かになり、デグサは環太平洋に進出した。
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