ルビンシテインとサンクトペテルブルク音楽院
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「チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「ルビンシテインとサンクトペテルブルク音楽院」の解説
著名なピアニストであったアントン・ルビンシテインは1858年に帰国するまでロシアを離れて西側のヨーロッパの中心で暮らして演奏、作曲活動を行ってきた。パリ、ベルリン、ライプツィヒといった都市の音楽院を訪れた彼には、それらと比較したロシアは音楽の砂漠のように見えた。西側の都市には華やいだ音楽界があった - 作曲家は尊敬を受け、音楽家は心から自らの芸術に打ち込んでいたのである。ロシアにも同じような理想をと考えながら、1858年の帰国前にはロシアに音楽院を設立する案を思いついていた。そしてようやく構想の実現を手助けしてくれる有力者らの関心を引くに至ったのである。 ルビンシテインは1859年にロシア音楽協会を創設して第一歩を踏み出すことになる。協会の目的は人々に音楽教育を施し、彼らの音楽的趣味を醸成、さらに各々が生活する地域に於いて各人の才能を開発することにあった。協会が最優先事項として行ったのは人々が自国作曲家の音楽に触れられるようにする取り組みである。膨大な量の西ヨーロッパの音楽に加え、ルビンシテインの指揮によりムソルグスキーとキュイの作品がロシア音楽協会で初演された。協会のはじめての演奏会から数週間後に、ルビンシテインは誰にでも開かれた音楽教室の催しを開始する。こうした教室への関心は、1862年にルビンシテインがサンクトペテルブルク音楽院を開校するまで高まり続けるのである。 音楽学者のフランシス・マースによれば、ルビンシテインの芸術性は非難すべき瑕がない完全さであるという。彼はロシアの音楽界を変革し進歩させるために闘ったのである。わずかに、彼の音楽的趣向は保守的であった - ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンからショパンまでの前期ロマン派止まりで、リストやワーグナーは含まれなかった。また音楽に関して当時まだ新しかった思想の多くには前向きでなく、クラシック音楽における愛国的役割もそのひとつであった。ルビンシテンにとって国家特有の音楽とは民謡と民族舞踊の中にだけ存在するものであり、大規模作品、とりわけオペラの中には国家特有の音楽が入り込む余地はなかったのである。攻撃を受けたルビンシテインであったが単純に表だって相手をしないという態度で応じた。彼の講義や演奏会は大入りであり、実際のところ応答する必要性を感じなかったのである。また、教え子に対してもどちらかの陣営に与することを禁じたのであった。
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