ルビンシテイン、バラキレフらとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/03 16:00 UTC 版)
「アレクサンドル・セローフ」の記事における「ルビンシテイン、バラキレフらとの関係」の解説
1860年代以降、ロシア音楽界の潮流がアントン・ルビンシテインをはじめとする「西欧派」とミリイ・バラキレフら「ロシア国民楽派」に二分されるなかで、セローフは「第三の陣営」といえる立場であった。 セローフはルビンシテインに対して、指揮者としての経験に欠け、作曲家と見なし得ないと批判した。また、ルビンシテインが設立したロシア音楽協会(RMO)のレパートリーを「ドイツ的で、保守的で、流行遅れ」と呼び、同じくサンクトペテルブルク音楽院に対しては、音楽院は外国人のペテン師を援助しており、アカデミックな訓練からは偉大な芸術は生まれないと主張した。 こうしたセローフのルビンシテインへの敵対心には、ルビンシテインがロシア音楽のディレッタンティズム(アマチュア)の風潮を批判しており、それをセローフが自分に向けられたもののように感じていたことがある。また、ロシア音楽協会の委員会や音楽院の教授にセローフが招かれなかったことへのわだかまりや、バラキレフ同様の排外的な反ユダヤ・反ドイツ的悪意も含まれていた。 1863年にリヒャルト・ワーグナーがサンクトペテルブルクを訪れたとき、セローフがルビンシテインをあまりにも険しく攻撃するのに面食らった。このとき、セローフはワーグナーに「私は彼が嫌いで、どんな譲歩もできないのです。」と答えたという。 一方、バラキレフに対しては、セローフは当初熱狂的に支持していたが、バラキレフのグループを支援する評論家ウラディーミル・スターソフとの反目や、セローフ自身のワーグナーへの傾倒からバラキレフから離れていった。セローフとスターソフは法律学校で出会って以来の友人であり、親交を通じて音楽への理解を深め合った仲だったが、ミハイル・グリンカの二つのオペラ『皇帝に捧げた命』と『ルスランとリュドミラ』の優劣をめぐる意見の不一致がもとで争い始め、たもとを分かつことになったのである。 さらにセローフのオペラ『ユディト』をバラキレフ・グループが攻撃したことで、両者の不和は決定的となった。「力強い一団(ロシア5人組)」という表現を茶化し、バラキレフ・グループの蔑視的な呼称として用いて広めたのはセローフである。
※この「ルビンシテイン、バラキレフらとの関係」の解説は、「アレクサンドル・セローフ」の解説の一部です。
「ルビンシテイン、バラキレフらとの関係」を含む「アレクサンドル・セローフ」の記事については、「アレクサンドル・セローフ」の概要を参照ください。
- ルビンシテイン、バラキレフらとの関係のページへのリンク