ヨーロッパでの瀉血の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 15:15 UTC 版)
瀉血はギリシャに始まってヨーロッパに広まり、中世初期では修道士が実践していた。 初期の頃には創傷によって皮下にたまった膿などを排出させる治療行為であったが、時代が下ると打撲や骨折によって生じた炎症部分を切開し、炎症の軽減を求めるためにも利用された。他方では血液のよどみが病気の原因であると考えられたため、血管を切開した。頭痛ではこめかみの血管を切開して、頭痛の軽減を図ろうとしたりする方向へ発展した。 1162年、ローマ法王が瀉血を禁止すると、床屋が瀉血用の小刀が付属したツールナイフを開発して瀉血を引き継いだ。現代の床屋の看板「サインポール」の元である「赤・青・白の縞模様」はもともと「赤・白の縞模様」であり、赤は血、白は止血帯を表し、ポール自体の形は瀉血の際に用いた血の流れを良くするために患者に握らせた棒を表しているという。 なお、頭痛治療における瀉血は穿頭(トレパネーション)の類型であると見なすことも可能であり、必ずしも根拠に基づく医療ではない。ただし、頭痛に対して瀉血を施すことが適切なケースも少なからず存在する。たとえば、多血症は頭痛やめまい、倦怠感を伴うが、これらの症状は瀉血により血中の赤血球を減ずることで軽快する。つまり、多血症が原因で頭痛を訴える患者に対して瀉血を施すのは、現代医学の立場においても適切と言える。とはいえ、当時は症候学が未発達であり、そもそも多血症という疾患の概念もなかったわけであるから、あくまで「瀉血により頭痛が軽快することがある」という経験則の範疇を出るものではないことには注意が必要である。さらに時代を下ると伝染病や敗血症・循環器系障害等にまで積極的に使用されたという。この時代においては衛生の維持が不十分であったため、切開部が感染症を引き起こすことも多く、また体力が落ちている患者にまで瀉血療法を行った結果、いたずらに体力を消耗させ、死に至るケースも珍しくなかった。このようなケースで亡くなったと見られる著名人には、エイダ・ラブレス、モーツァルト、ジョージ・ワシントンなどがいる。 一部では神秘主義と結合し、体内に巣食った霊的なものが血液と共に排出されると考えられた(穿頭も同様)こともあり、このような瀉血の汎用は長く続き、またヨーロッパ一帯に広まって近代医療の発展する時代まで続いたという(呪術医の項を参照)。ヒポクラテスの唱えた四体液説が当時の医学の根本的な考えであったことも使用に拍車をかけた(四体液説では体液のバランスが健康に影響するとされているため、崩れた体液のバランスを戻すために血液の量を減らす目的で瀉血が行われた)。 後に、いたずらに体力を消耗させる瀉血療法の治療効果が疑わしいとして、18世紀以降には次第に汎用されることは減っていった。
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