ユニバーサル・カートゥーン・スタジオ時代
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「ウォルター・ランツ」の記事における「ユニバーサル・カートゥーン・スタジオ時代」の解説
1929年初めに、ユニバーサルはウォルト・ディズニー原作のオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットのカートゥーンをチャールズ・ミンツ(英語版)やジョージ・ウィンクラーに作らせて配給していた。しかし、低予算で作られたため人気は低かった。そのため、レムリはミンツらを解雇し、新たなカートゥーン・スタジオの社長を探し始めた。ランツは賭けポーカーで社長の座およびキャラクターの所有権を得た。 ランツはトム・パーマー(英語版)(アニメーター)やバート・フィスケ(ウィンクラー・スタジオ出身の音楽家)らを最初のスタッフとして雇った。なかでもアニメーターのビル・ノーラン(英語版)は重要で、会社の成長を助けた。ノーランはパノラマ背景の発明や、新しく合理化されたフィリックス・ザ・キャットを制作し、アメリカのアニメーションの基礎となった「Rubber hose animation」(腕、場合によっては脚を単純で流れるような曲線かつ関節がないように描くスタイル)を手がけたことで知られている。後に雇ったスタッフとしてはピント・コルヴィッグやフレッド・アヴェリーがいる。 1929年9月1日、ランツたちの最初の作品である「Race Riot」が公開された。初期のランツのカートゥーンはディズニーやウィンクラー・スタジオの特徴を受け継いだ筋やストーリを基礎に制作する方法がとられた。オズワルドのカートゥーンをミュージカルに変換することは別の問題だったが、1930年中頃にランツとそのスタッフは目標に達した。残念ながら、その過程でオズワルトの人格は一貫性を失った。彼は特定のギャグに適合させるために徹底的に変化した。スタジオの音楽監督もデビッド・ブロークマンからポール・ホワイトマン(英語版)オーケストラのメンバーのジェームス・ディートリッヒに交代した。ディートリッヒの加入により、1920年代のジャズ時代のサウンドがスタジオの作品の典型的な要素となった。なおディートリッヒは1937年までパラマウントの音楽監督でもあった。また、ランツとノーランはこのころ「Fanny the Mule」という13のカートゥーン作品に取りかかっていたが、結局公開されることはなかった。 1931年、ランツは経済的困難に直面し、人員削減、カートゥーンの上映時間の削減、一握りの初期のディズニーのオズワルドの音声を画像に重ねるといったことを強いられた。このほかの解決策は「Pooch the Pup」という犬を主人公にした新しいシリーズを制作することで注意を引いてもらうことだった。よってランツとノーランはスタジオの制作班を2つに分けることにした。ランツがPooch the Pupを、ノーランがオズワルドを制作した。どちらのシリーズも世界恐慌の苦境に言及していた。Pooch the Pupは人気のある作品にはならず1933年に終了した。1935年にはノーランがスタジオを去った。これによりランツはスタジオの単独経営者となった。またCartune Classicsというカラーのカートゥーンシリーズの制作が開始された。 なお、ランツは新作のオズワルド作品と並行して、ディズニー時代のオズワルド作品(Trolley Troubles、 Great Guns!、The Ocean Hopなど)を再公開していた。
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