モンペリエとアジャンでの日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:19 UTC 版)
「ノストラダムス」の記事における「モンペリエとアジャンでの日々」の解説
1521年からの約8年にわたる遍歴を経て、ノストラダムスは1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。この時点で、薬剤師の資格は取得していたようであり、その後研究を重ねて医学博士号を取得したとされる。ただし、その記録は確認されておらず、むしろ当時の学生出納簿にはノストラダムスの名を抹消した形跡があり、この傍には在学中に医師たちを悪く言ったかどで告発された旨の記述がある 。この点、はっきりと大学から除籍されたと位置づける者もいる。また、当時の正式な薬剤師登用に求められた条件(数年間に及ぶ徒弟修業期間や同業者組合内での試験)を、ノストラダムスが満たしていた形跡が見られないことから、入学前に薬剤師資格を所持していたこと自体を疑問視する者もいる。 この頃の「伝説」としては、博士号取得後に請われて同大学の教授として教鞭を執ったが、あたかも未来を先取りするかのような先進的な治療法のせいで、同僚の保守的な教授たちとの間で大きな軋轢が生まれ、わずか1年で辞職したというものがある。しかし、それは17世紀以降に言われるようになったに過ぎず、それを裏付ける史料は確認されていないどころか、上記のように博士号取得に至る過程自体もはっきりしていない。 従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後に、エラスムスに比肩しうる学者として知られていた、アジャンのジュール・セザール・スカリジェの招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した。彼はアジャンで開業医として医業に携わる傍ら、博識のスカリジェから多くを学んだらしい。また1531年には、アジャンのアンリエット・ダンコスという女性と結婚したことが、1990年代に発見された結婚契約書から窺える。この発見によって、従来謎であった最初の妻の名前も明らかとなったが、慎重な見方をする論者もいる。実際のところ、この頃既にアジャンにいたのだとすれば、モンペリエで3年間研究して博士号を取得したとされた通説との間に、齟齬を来すこととなる。 結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供をもうけたことは、確実視されている。しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようである。この死因にはペストが有力視されているが、実際のところは不明である。その後、持参金などを巡って妻の実家から訴訟を起こされたという話もあるが、これも定かではない。 同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェとの仲も険悪なものになっていった。さらには、1538年春にトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたようである。その理由は「聖人を冒涜した」事を問題視されたという程度にしか分かっていない。怠惰な姿勢で聖母マリア像を作っていた職人に、そんなやり方では悪魔の像が出来てしまうと注意したところ、逆に聖母を悪魔呼ばわりした人物とされてしまったという説もあるが、これはトルネ=シャヴィニーらが19世紀になって言い出した話のようである。このほか、アジャンのプロテスタント医師サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累が及んだとする説もある。 こうした諸状況の悪化によってノストラダムスは再度の遍歴を決心したとされるが、上述の通り裏付けとなる史料に乏しく詳細は不明である。ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそれが一因となって旅に出たらしいことは確実視されている。実際、1530年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶える。この頃の伝説としては、オルヴァル修道院(フランス語版)に立ち寄って予言を書き残したというものがあり、19世紀に出現した偽書「オリヴァリウスの予言」や「オルヴァルの予言」と結びつけられることもあるが、資料的な裏付けを持たない。
※この「モンペリエとアジャンでの日々」の解説は、「ノストラダムス」の解説の一部です。
「モンペリエとアジャンでの日々」を含む「ノストラダムス」の記事については、「ノストラダムス」の概要を参照ください。
- モンペリエとアジャンでの日々のページへのリンク