ムーランルージュの琴代京平
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「小國狂二」の記事における「ムーランルージュの琴代京平」の解説
1935年(昭和10年)3月14日に公開された『召集令』(監督・脚色渡辺邦男)には「記録」(スクリプター)としてクレジットされており、当時は、東京に移住して、同作を製作した日活多摩川撮影所で同様の仕事をしていたと推測される。1938年(昭和13年)ころには、小沢不二夫の紹介でムーランルージュ新宿座文芸部に参加、同年2月17日には『赤煉瓦の夢』、1939年(昭和14年)9月12日には『裏町株式街』、1940年(昭和15年)9月21日、『福松造船所』を「琴代 京平」の名で作・演出している。このムーランルージュの時代、同年1月15日に大都映画が製作・配給して公開したトーキー『新家庭防空読本 新婚爆撃隊』(監督山内俊英)、同じく1942年(昭和17年)1月7日に公開された 『疾風馬車』(監督・脚色小崎政房)にオリジナルシナリオや原作が採用されている。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館には、執筆年代が不明であるが琴代の名で署名された『天才小役一家』、『守錢奴外道 四景』、『巷の相剋 三景』、『春暦 四景』、『模範工場顛末 四景』、『裸の村 三景』、『しぐれの街』の7篇の謄写版台本を所蔵している。 第二次世界大戦終了後も、ひきつづき新宿ムーランルージュで自作の戯曲を演出している。1960年(昭和35年)2月2日から同年4月5日にかけて10話連続で放映されたテレビ映画『江戸の影法師』(原作寿々喜多呂九平、フジテレビジョン)の脚本を「琴代京平」の名で手掛けている。1966年(昭和41年)5月15日に死去した小沢不二夫を偲ぶ会が、その後まもなく開かれ、小国(琴代)はこれに列席しており、そこで再会した岸によれば、当時60代の小国は、東京都小金井市の「小金井市公会堂」(2006年3月閉館)で事務の仕事をしていたという。1960年代には東京都世田谷区大原町(現在の同区大原)に居を構え、やがて府中市北山町に転居、さらに杉並区下高井戸へ転居、晩年を過ごしたとされる。岸によれば、同所に転居した後の1970年代後半のある時期に死去した。没年不詳。
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