ムーランルージュの琴代京平とは? わかりやすく解説

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ムーランルージュの琴代京平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:57 UTC 版)

小國狂二」の記事における「ムーランルージュの琴代京平」の解説

1935年昭和10年3月14日公開された『召集令』(監督脚色渡辺邦男)には「記録」(スクリプター)としてクレジットされており、当時は、東京移住して同作製作した日活多摩川撮影所同様の仕事をしていたと推測される1938年昭和13年)ころには、小沢不二夫紹介ムーランルージュ新宿座文芸部参加同年2月17日には『赤煉瓦の夢』、1939年昭和14年9月12日には『裏町株式街』、1940年昭和15年9月21日、『福松造船所』を「琴代 京平」の名で作・演出している。このムーランルージュ時代同年1月15日大都映画製作・配給して公開したトーキー新家防空読本 新婚爆撃隊』(監督山内俊英)、同じく1942年昭和17年1月7日公開された 『疾風馬車』(監督脚色小崎政房)にオリジナルシナリオ原作採用されている。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館には、執筆年代不明であるが琴代の名で署名された『天才小役一家』、『守錢奴外道 四景』、『巷の相剋 三景』、『春暦 四景』、『模範工場顛末 四景』、『裸の 三景』、『しぐれの街』の7篇の謄写版台本所蔵している。 第二次世界大戦終了後も、ひきつづき新宿ムーランルージュ自作戯曲演出している。1960年昭和35年2月2日から同年4月5日にかけて10話連続放映されテレビ映画江戸影法師』(原作寿々喜多呂九平フジテレビジョン)の脚本を「琴代京平」の名で手掛けている。1966年昭和41年5月15日死去した小沢不二夫偲ぶ会が、その後まもなく開かれ小国(琴代)はこれに列席しており、そこで再会したによれば当時60代小国は、東京都小金井市の「小金井市公会堂」(2006年3月閉館)で事務仕事をしていたという。1960年代には東京都世田谷区大原町現在の同区大原)に居を構え、やがて府中市北山町転居、さらに杉並区下高井戸転居晩年過ごしたとされる。岸によれば同所転居した後の1970年代後半のある時期死去した没年不詳

※この「ムーランルージュの琴代京平」の解説は、「小國狂二」の解説の一部です。
「ムーランルージュの琴代京平」を含む「小國狂二」の記事については、「小國狂二」の概要を参照ください。

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