マーサと奴隷制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 16:47 UTC 版)
「マーサ・ワシントン」の記事における「マーサと奴隷制度」の解説
上流階級の南部白人の家庭であった故、奴隷制度を目前に育ったが、「南部の機構」の倫理的また道徳的な基本について問題にすることはなかった。イギリスの通常法においてカスティスの遺産の3分の1を相続し、そこからの収入で生活していたが、その資産は多くのプランテーションや農園とそこで働く、多くの奴隷男女と子供達のためであった。 ワシントンとの結婚によって、ワシントンが法廷の監視のもと、カスティスの遺産も法的に管理することになった。農園の記録はマーサが多くの決裁を行い続けたことを示している。ワシントンは管理的なことに影響を及ぼし、農園から上がる収入を受け取っていた。息子ジョンの相続持ち分である土地や奴隷は売却しなかった。 しかし、彼女のメイドでカスティス農園の奴隷少女、オニー・ジャッジ(英語版)が大統領2期目の時にフィラデルフィアの持ち家から逃亡した時は動揺している。ジャッジは市内の自由黒人の友人の家に隠れ、その後北方に動いた。パトリシア・ブラディは2005年に出版したマーサ・ワシントンの伝記の中で、次のように書いている。 「 彼女が世話をしていた、世慣れない少女に対する責任を感じていた。とりわけ少女の母や姉妹がマウントバーノンに戻ってくれるよう期待していたからである。マーサが理解できなかったことは、オニー・ジャッジが単純に自由になりたいと願っていたことだった。オーナ(こう呼ぶことを好んだ)は楽しい場所で生活し楽しい仕事をし、読み書きを習いたかった。オーナはマーサを尊敬し、その待遇にも不満は無かったが、自分が、そして自分の子供達が、将来も奴隷であることに耐えられなかったと告白した。 」 そしてフィラデルフィアの大統領官邸(英語版)で料理長として働いていた奴隷のヘラクレス(英語版)が1797年2月22日に逃亡する。マウントバーノンにはヘラクレスの6歳の娘が残されたが、その娘は父が自由になれて嬉しいと語ったという。 歴史家ヘンリー・ビンセックは2004年の著書『全能ではない神:ジョージ・ワシントン、その奴隷、そしてアメリカの創造』において、マウントバーノンとバージニア歴史協会に残された資料の中から、彼が発見した原資料について触れて次のように書いている。 「 マーサ・ワシントンにはアン・ダンドリッジという名の、混血で異母妹の奴隷がいた。アンはマーサの息子ジョン(アンにとっては甥)との間に子供が出来た。 」 ビンセックによればとりわけこの出来事がジョージ・ワシントンをして奴隷制度を「不快なこと」と言わしめ、後にワシントンが奴隷をすべて解放する決断に影響しただろうとしている。アン・ダンドリッジの存在に関する他の資料としては、ヘレン・ブライアンの2001年の著作『マーサ・ワシントン:自由のファーストレディ』が存在する。この本でブライアンはビンセックの研究を引き合いに出し、「影の妹」はマーサの歳に近く、子供の時から共に育ったとしている。 ビンセックは以前の歴史家がアンという妹の存在を示す証拠文書を無視したと書いている。ブラディは著書の終わりの伝記的注釈でマーサの異母妹の存在を否定し、ビンセックとブライアンは「家庭内神話」と「言い伝え」を受け入れたのだと主張している。ブラディはビンセックが発見したバージニア歴史協会とワシントンD.C.の文書庫にある、アン・ダンドリッジの解放が記録されている証拠文書については審査を要求していない。この疑問が残る文書の評価においてビンセックは、カスティス農園の記録とマウントバーノン農園の奴隷の記録から、アン・ダンドリッジが削除されたと主張している。何年もプランテーションの家族を研究してきたビンセックは、奴隷と奴隷所有者の間の家族の絆はしばしば秘密にされたと考えている。
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