ボギスラフ14世の死後、ブランデンブルクとの対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 14:52 UTC 版)
「シュテッティン条約 (1630年)」の記事における「ボギスラフ14世の死後、ブランデンブルクとの対決」の解説
「ブランデンブルク・ポメラニア紛争(英語版)」および「グリムニッツ条約」も参照 1637年3月10日、ボギスラフ14世が後継者のないまま死去した。3月11日、スウェーデン大使ステン・スヴァンテッソン・ビェルケ(英語版)はポメラニア当局にシュテッティンの同盟を履行することと、ブランデンブルクの介入をはねつけるよう助言した。3月14日、ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムはスウェーデンのクリスティーナ女王に手紙を書き、1493年のピュリッツ条約と1529年のグリムニッツ条約に基づく自身のポメラニア公国の継承権は同盟に影響されないと述べ、クリスティーナにそれを尊重するよう求めた。彼は同じような手紙をビェルケとスウェーデン元帥カール・グスタフ・ウランゲル(英語版)にも送った。同日、ブランデンブルクの急使が選帝侯の押収状をもってシュテッティンに現れたが、ビェルケは即座に彼を投獄して、絞首刑に処すると脅した。翌日、選帝侯はポメラニア貴族に自身の臣下として振舞うよう警告した。 1637年3月19日、ポメラニア貴族の代表はスウェーデン・ブランデンブルク間で合意するまで請求を一時停止するよう選帝侯に嘆願したが拒否され、ビェルケも3月24日にブランデンブルクとのいかなる交渉も拒否すると宣言した。ビェルケは4月3日にブランデンブルクの請求自体を挑戦するつもりはなく、ブランデンブルクがスウェーデンの請求を無視していることを挑戦しただけと釈明したが、ウランゲルは4月12日にブランデンブルクの請求を拒否すると述べ、ポメラニア貴族にスウェーデンへの忠誠を守るよう助言した 。ゲオルク・ヴィルヘルムは4月28日に帝国の介入で脅しつつ、3月14日に述べた請求を再び述べた。フェルディナント2世はブランデンブルクの継承を確認する特許状を発し、ゲオルク・ヴィルヘルムも5月22日に特許状を発した。ポメラニア人は6月7日から29日にかけてラントターク(英語版)を開き、ビェルケとポメラニア貴族はきたるブランデンブルクの占領に抵抗すると合意した。 1637年8月、マティアス・ガラス(英語版)率いる帝国軍はポメラニアとメクレンブルク=シュヴェリーンの境界に移動、スウェーデン軍もポメラニア側の国境に集中した。ガラスは10月末に撤退したが、フォン・ブレドウ(von Bredow)は10月24から25日にかけて西ポメラニア(英語版)に侵入、トリープゼース(英語版)、レーツ(英語版)、ヴォルガスト、デミーン(英語版)を占領した。ポメラニア公国南部の貴族は寝返って11月25日にブランデンブルク選帝侯に忠誠を誓い、東部地域のシュラーヴェとシュトルプ(英語版)では貴族数人がダンツィヒで選帝侯の代表と面会して1638年1月1日に東プロイセンに移住する許しを得た。同月、フェルディナント2世はポメラニア公国を封土としてブランデンブルク選帝侯に与え、1月26日にポメラニア貴族に受け入れられた。ポメラニア政府は3月に辞任した。 1638年4月3日、枢密院(英語版)はポメラニアについて討議、公国の占領を決定した。5月2日、アクセル・リリー(英語版)とヨハン・リリーホーク(スウェーデン語版)がスウェーデンからポメラニア総督に任命されたが、2人は主に軍事を司り、行政はほかの役人に任された。ヨハン・リリーストロム(ドイツ語版)はポメラニアをスウェーデン帝国に組み込むタイムラインの草案を作成するよう命じられた。 1638年7月28日、スウェーデン元帥ヨハン・バネール(英語版)は東ポメラニア(英語版)から攻撃を開始、西ポメラニア(英語版)の帝国軍を攻めた。ポメラニア公国はその後の戦役で荒廃した。バネールは年末までに公国全体の総督に任命された。ブランデンブルクは1639年から1641年にかけて、武力による再占領を計画したが、計画は進まなかった。しかし一方で、スウェーデンとポメラニア政府による文民政府の再設立も失敗した。スウェーデンとブランデンブルクは1641年7月14日に停戦協定を締結したが、1642年2月と1643年4月の交渉はまとまらなかった。 1643年9月1日から7日にかけて、ヨアヒム・エルンスト・フォン・クロッコフ(ドイツ語版)率いる帝国軍がポメラニア公国に侵攻、東ポメラニア西部を占領した。ハンス・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク(英語版)率いるスウェーデン軍は10月1日にクロッコフを攻撃した。戦闘は11月12日にクロッコフがケーニヒスマルクの追撃を受けつつ撤退するまで続いた。
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