ホロ島での警備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 01:43 UTC 版)
「独立混成第55旅団 (日本軍)」の記事における「ホロ島での警備」の解説
ホロ島に到着した旅団主力は、独立歩兵第363大隊の3個中隊を西地区部隊としてツマンタンガス山方面に、第365大隊を東地区部隊として飛行場方面に、旅団司令部と第363大隊の1個中隊をダホ山方面に配置し、陣地構築を行った。合わせてゲリラに対する討伐を行ったが、ホロ島に先住するモロ族からの襲撃を繰り返し受け、好戦的かつ戦闘上手なモロ族の前に戦死傷者が続出した。 これについて、旅団砲兵隊に所属していた藤岡明義兵長は以下の証言を残している。 「我々がこの島に上陸して一カ月と経たないうちに、百名に近い兵隊がモロに殺されてしまった。いずれも「コムパニー、コムパニー」(友達の意)と近寄り、油断を見て蕃刀の抜討に会ったのである。一番多くやられたのは歩哨であった。最初の間は、彼らは少人数を狙って来たが、日本軍与し易しと見るや大胆となり、毎日定時に一定の道を通る部隊を待ち伏せるようになった。ある部隊の命令受領者九名は、毎日定時に命令受領に通る道を待ち伏せされて全員戦死。私の部隊の一コ小隊は山の分哨に出ていたが、毎朝麓の部落まで野菜の買出しに行くのを待ち伏せされて、一行十二名全員戦死。ある部落では日本兵を歓迎して毎日御馳走を出し、空腹の日本兵が大勢で招待されているところに、手榴弾を投げ、首を切って廻った。またある部隊の一コ小隊は山の陣地に糧秣運搬中、協力していたモロに突如背かれて皆殺しにあった。(中略) 頻々たる分哨襲撃事件に業を煮やした兵団は、一日、歩兵一コ大隊に山砲を配して大討伐を行ったが、ジャングル戦に馴れていない日本軍は、弓と槍と蕃刀と小銃による神出鬼没の肉薄攻撃に、小児の如く翻弄され、著しい犠牲を出して逃げ帰った。帰り路には、すでに先廻りしたモロが、多数の樹を路に並べて山砲の進行を阻害、これを踏み越えるのにまごついているところを突撃されて、あわや山砲を奪取されるところであった。それ以来、遠方の分哨を引き揚げ、ホロ町付近の警備だけにやっとの形となった。そのホロ町の飛行場すら、白昼襲撃を受けることもあった。」 こうしたモロ族との交戦を行いつつ、旅団は陣地構築と教育訓練を続け、昭和20年4月9日の米軍上陸を迎えた。米軍上陸時にホロ島に在島していた日本軍兵力は、独立混成第55旅団主力(約2,850名)、軍無線1個分隊(16名)、憲兵(30名)、航測小隊(30名)、海軍陸戦隊(300名)、同基地隊(100名)、同施設部(100名)の、合計約3,425名だった。
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