ホニホロ飴売り
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後に四代目歌川広重を襲名する菊池貴一郎が明治38年(1905年)に著した『江戸府内絵本風俗往来』(全2巻)の下巻には“唐人飴ホニホロ”の項目がある。 唐人笠といふを被り、被服も同じく、此頃、唐人といふに拵へ、紙張の馬を造り、四本の足をぶらりとつり、馬の背に穴ありて、己の両足を其穴に入れて、馬をば己が腰に縊り付て、吾足にて歩くや、馬のつりし足はぶら~~として、恰も馬の足を運べる様見へたり。己は唐人笛を吹ながら駈る、又、笛を振て踊なり。偖路上程、よき所を見斗ひて立、唐人笛を音高く吹鳴す。孩子等は笛の音を聞て、ホニホロと行て見んとて走り集る。飴を買ふ者には、眼鏡を貸て見せしむ。眼鏡は玻璃を八ツに角を摩て、糸を引時は、玉の廻る様作りたり。眼に當て見る時は、八ツ乃ち八人に見へ、玉の廻せば八人同じく廻る。飴賣は眼鏡を貸切しと、暫時が間、笛を吹ならし、眼鏡を見し所より、二、三、間隔りて、身振可笑、ハッホニホロホニホロ~~~~、雷眼で、ハッホニホロホニホロ~~~~~~、ハッ上るはホニホロ、ハッ下るはホニホロ~~~~。孩子等、余念なく面白がりて飴を買見んとせざるはなし。 また、淡島寒月が大正12年(1923年)、『七星』誌第2号に寄稿した、『梵雲庵漫録』は江戸末期から明治初年度にかけて寒月が見た物売りや見世物の随筆集だが、その冒頭はホニホロである。 まず第一に挙げたいのは、花見時の上野に好く見掛けたホニホロである。これは唐人の姿をした男が、腰に張子で作った馬の首だけを括り付け、それに跨がったような格好で鞭で尻を叩く真似をしながら、彼方此方と駆け廻る。それを少し離れた処で柄の付いた八角形の眼鏡の、凸レンズが七個に区画されたので覗くと、七人のそうした姿の男が縦横に馳せ廻るように見えて、子供心にもちょっと恐ろしいような感じがしたのを覚えている。 この馬の張りぼては新年に祝言の歌囃子に合わせて踊りを披露した門付の芸に用いた“春駒”の一種である。正月の門付芸での春駒は武士であったり、大黒などの縁起物だったりするが、このホニホロ飴売りはそれをそっくり唐人の姿にしている。飴売りが子供たち(文中の“孩子”)に貸し出す眼鏡は“ホニホロ眼鏡”、“将門眼鏡”、“八角眼鏡”と呼ばれたブリリアントカットのような研磨加工されたガラスをはめた板である。山東京伝が天明8年(1788年)に著した黄表紙『時代世話二挺鼓』下巻には7体に分身した平将門に対し、藤原秀郷が駒形の眼鏡屋で買った“八角眼鏡”を取り出し、これを通せば自分は8体に分身できると将門を仰天させたという下りがある。また、玩具研究家の川崎巨泉は『玩具帖』の中に“ホニホロ眼鏡”の克明な図絵を載せている。明治18年(1885年)に旧幕臣の著述家、岡本経朝(号・昆石)が江戸の古風俗を英語訳文と絵で紹介した『古今百風吾妻余波』の中に眼鏡を持った子供たちの前で踊るホニホロ飴売りの姿がある。 ホニホロ飴売りが登場したのは、ガラス製の眼鏡が出回る大御所時代以降と推測される。上述した山東の『時代世話二挺鼓』は天明8年の作品である。宮武外骨が雑誌『此花』四枝に記した『ホニホロ考』の中で、宮武は寛政の頃に登場したのではと推測し、「或人の説に、初めは武者姿のみであつたが、安政の頃唐人姿のものが現はれたのであると云ふ、そして此種のもので此ほにほろほど長く續いて流行したものはないさうである」としている。 “ホニホロ”という言葉の意味については、宮武はオランダ語ではないかと推測したが、それを受けて南方熊楠が『十二支考』内の『馬に関する民俗と伝説』の中で、該当する外語はないとして、「ホニホロは単に囃の詞ことばらしく、風を含み膨れる体を帆に幌とでも讃えたのでなかろうか」としている。
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