ベチュアナランドの併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:04 UTC 版)
「ボツワナの歴史」の記事における「ベチュアナランドの併合」の解説
イギリスは一時的に後退したものの、ベチュアナランドを放置するつもりもなかった。時期を見てケープ植民地に併合する計画であった。しかし1910年にアフリカーナーが南アフリカ連邦を形成、同年ベチュアナランドを一方的に併合してしまう。カーマ3世と他の首長は再度イギリスに保護を要請した。当時すでに南アフリカ連邦内でアフリカ人の諸権利を制限、剥奪する法律が続々と制定されていることに気づいていたからだ。結局イギリスはアフリカーナー側から何度交渉を持ちかけられても南アフリカ連邦によるベチュアナランドの併合を認めなかった。 しかし、ここに至ってもイギリスはベチュアナランドにおける植民地経営には関心がなかった。ローズが建設した1本の鉄道を使うだけで、ベチュアナランド内部を相互接続する鉄道、道路の整備には関心がなかった。ローズが引いた鉄道の営業キロ数の推移を見ると、当初634kmだった鉄道は1921年に管轄がローデシアからベチュアナランドに移管された時点で全く延びていない。1966年に独立した当時も同じ営業キロ数である。イギリスは産業の育成、教育や医療の普及にはまったく取り組まず、植民地政府すら置いていない。1891年から1963年までイギリス高等弁務官は南アフリカのマフェキンに留まったままだった。イギリスは都市も建設していない。現在のボツワナの首都ハボローネは1880年代にソト人トゥロクワ族の村として始まった。たまたまローズの鉄道が4km西を通過し、駅が置かれたため、1962年には人口が4000人まで増えてはいた。しかし、鉄道駅以外の社会的インフラは備わっていない。水が豊かであったこと、他にめぼしい都市がなかったことから1963年に将来の首都として選ばれている。結局のところ、イギリスの保護領ベチュアナランドに対する視点は安価な労働力の供給源というものに過ぎなかったのだ。 1910年当時人口10万人を上回っていたアフリカ南部の都市は、南アフリカのケープタウンとヨハネスブルグだけであった。ヨハネスブルグは現在に至るまで鉱山都市である。鉱業を成立させるためには多大な資本投資が必要であり、多量の労働者を用いるため、人件費もかさむ。イギリスは蒸気機関、電力設備などの導入を控え、税金の支払いのためだけにベチュアナランドから働きに出てきたツワナ人労働者を酷使した。ベチュアナランド内に産業はなく、ヨハネバーグまでは国境から200kmしか離れていない。労働者を運ぶ鉄道もある。ツワナ人に支払う人件費は大半が税金として還流するため、結局、資本を少量投下するだけで貴重な鉱石を入手できることになる。力で押すだけ、ツワナ人を使いつぶすだけのアフリカーナーと比較すると、いったん現金を支払うことでツワナ人の不満をそらしており、巧妙で長続きする支配体制と言えよう。
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