ベチュアナランドの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:04 UTC 版)
「ボツワナの歴史」の記事における「ベチュアナランドの成立」の解説
急速に勢力を伸ばし始めたドイツに対抗するため、1885年、イギリスはいったん拒絶したカーマ3世の保護要求を受け入れている。同時に他の7首長に対しても保護を通知した。イギリスはツワナ人の領域、すなわち西のモロポ川の北岸から始まり、東のリンポポ川の北岸を南限として、これより北をベチュアナランド(Bechuanaland、現在のボツワナ)と呼び、保護領とした。イギリスは土地の所有権は主張せず、アフリカーナーの土地に対する要求も認めなかったため、ツワナ人の土地が守られたことになる。 イギリスの興味は税金のみにあった。ボツワナから収益を上げることは考えておらず、保護領を維持するだけの税金で満足していた。イギリスにとってはボツワナは単にケープ植民地を守る天然の防壁にすぎなかったからだ。ツワナのコシにとっては話が違う。自らの年貢の権利が犯されるからだ、しかし、ボーア人の侵入を抑えるためにはしかたがなかった。カーマ3世は年貢よりもングワトに対する干渉と南アフリカへの併合を恐れていた。
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