ヘルツェゴビナの反乱
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1875年にヘルツェゴビナでオスマン帝国に対する反乱が起こった。反乱はボスニアとブルガリアに波及したので、これがバルカン半島全体の戦争にまで発展しないよう、列強は介入する必要があると考えた。当時三帝同盟を結んでいたドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアの三国は共通の姿勢を取ることを決め、アンドラーシ・ノート(Andrássy Note)という形で方針がまとめられた。この文書は、南東ヨーロッパにおける大規模な紛争の火種をなくすために、キリスト教徒の宗教的差別をなくすなどさまざまな改革をオスマン皇帝に求め、さらに、改革を保証するためイスラム教徒とキリスト教徒による合同委員会の設置も求めていた。イギリスとフランスの承認を経て、この文書はオスマン皇帝に提出され、1876年1月31日には皇帝の承認を得た。しかし、ヘルツェゴビナの側(反乱者たち)の指導者は、以前もオスマン皇帝は改革の約束をしたが実現しなかったという理由で、この妥協案を拒絶した。 三帝同盟の各国代表はベルリンで再び会合し、ベルリン覚え書きを合意した。覚え書きでは、ヘルツェゴビナの指導者を納得させるため、オスマン皇帝が約束する改革の実施状況を国際代表団が監督することを求めていた。しかしオスマン帝国政府が覚え書きを受け入れる前に、オスマン帝国内部でクーデターがおこり、オスマン皇帝アブデュルアズィズは廃位された。続くムラト5世も精神錯乱が治らずに3ヶ月で退位し、混乱の末アブデュルハミト2世が即位した。この間にボスニア・ヘルツェゴビナの反乱にセルビアとモンテネグロが介入し、既に1875年に債務不履行に陥っていたオスマン帝国の困窮はここに極まった。 1876年の8月には反乱はなんとか終息に向かったが、反乱がほとんど鎮圧された頃、オスマン帝国による住民の大虐殺(バタクの虐殺)が明らかになり、ヨーロッパに衝撃を与えた。汎スラヴ主義を掲げるロシアは、この状況を利用してオスマン帝国領を割譲させるために介入しようと画策した。1876年末から1877年始めにかけて、イタリアも加えた列強はコンスタンティノープルで和平案を協議したものの、オスマン皇帝は改革を監督する国際代表団の受け入れが独立をおびやかすことを懸念して、発布されたばかりのオスマン帝国憲法の条文を楯に、列強の要求を強く拒絶した。これを受けて、1877年4月24日、ロシアはオスマン帝国に宣戦布告した(露土戦争 (1877年-1878年))。オーストリア・ハンガリーは、ライヒシュタット協定(英語版)(戦争によりロシアがベッサラビア及びコーカサスを、オーストリア・ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナを獲得することを約束した)に基づき中立を保持した。イギリスは、南アジア方面でのロシアの脅威を危惧していたが、戦争には介入しなかった。孤立したオスマン帝国にロシアは圧勝し、1878年2月、サン・ステファノ条約を結んで以下の要求を認めさせ多額の賠償金を得た: ルーマニア、セルビア、モンテネグロの完全な独立 ブルガリアの実質的な独立 ボスニア・ヘルツェゴビナでの改革 アルメニア人の多い東部アナトリアや、ドブロジャのロシアへの割譲 ロシアは新たな独立国に対しても保護権を確保し、南東ヨーロッパでの影響力を増大させた。 しかし、このようなロシアの勢力拡大に対しイギリスをはじめとする列強は反発し、同年6月、ベルリン会議を開いてサン・ステファノ条約を見直し勢力調整をはかった。ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立はそのまま承認されたが、その境界は狭められた。ブルガリアはロシアの影響力を警戒されて大きく二つ(ブルガリアと東ルメリア)に分割された。ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの管理下におかれた。ベルリン会議によって、列強間の利害問題としての「東方問題」は外交的に一応の決着がつけられた。
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