プロ化前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:23 UTC 版)
ハンス・オフトより前の歴代日本代表監督は、アマチュア全国リーグJSLからの出向だったので、その給料は所属企業が全て支払っており、JFAが日本代表海外遠征費を捻出できず、旅行代理店に手形で支払うこともあったほど長らく財政難だったこともあり、JFAからは給料も手当も受け取っていなかった。従って、JFAは日本代表監督候補者に就任する前に「日本代表監督を辞めた後、企業に戻れる確約を得てから就任するよう」求めていた。JFAに選手待遇改善要求を行い、実現させた(後述)森孝慈ら日本代表コーチ陣に対しては、日本体育協会からコーチング料月額数十万円が支払われたが、JFAからの報酬は一切無かった。因みに、デットマール・クラマーのJFAでの公式の肩書は顧問(アドバイザー)であり、西ドイツサッカー連盟(現ドイツサッカー連盟)から給料が支払われ、JFAからの報酬は原則無かった。
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プロ化前
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プロ化される以前の日本代表選手は前述の通り、JFAが長らく財政難だったこともあり、JFAから給料や手当を長期に渡って受け取っていなかった。アマチュア全国リーグJSL所属の選手がほとんどで、所属企業での給料以外受け取っておらず、有給休暇を使って日本代表活動をこなし、その諸費用も自費で賄っていた。1970年メキシコW杯アジア・オセアニア予選終了後、日本代表選手たちがJFAから何の手当ても受け取っていない事実を知ったコーチ(公式の肩書は顧問)のデットマール・クラマーが、「私は君たちに厳しい要求をし過ぎたようだ」と謝罪したエピソードがある。 1972年5月、ペレが所属するブラジルのサントスFCが来日し日本代表と対戦した。前売り券は4日で売り切れ、国立競技場はほぼ満員(有料入場者数53,516人)となった。この為、当時日本代表だったジョージ小林が日本代表合宿中に長沼健監督に入場料収入の一部をボーナスとして受け取れないかと要求したが、当時のJFAは依然として財政難だった為、断られた。その後、JFAの財政基盤確立への様々な取り組みの結果、1976年ペレの引退試合以降、JFAの財政は好転し一度も赤字にならずに済むようになった。森孝慈が日本代表監督に就任すると、JFAと日本代表選手の手当てなどについて交渉して、1982年から1日3000円の手当てがつくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつくようになった。同時に宿泊施設についても改善された。1993年5月15日のJリーグ開幕より以前に、ブラジルから帰国した三浦知良、日本に帰化したラモス瑠偉ら当時の日本代表選手たちがJFAに待遇改善を訴え、日当と勝利給が支給されるようになったものの、出場給は存在しなかった。
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