プロレスでの活躍
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「レオ・ノメリーニ」の記事における「プロレスでの活躍」の解説
大学の先輩であるバーン・ガニアのスカウトでプロレス界にも進出、1950年3月21日にミネソタ州セントポールにてビック・ホルブルックを相手にデビュー。以後、アメフトのオフシーズンを利用してミネアポリス地区やサンフランシスコ地区で試合を行った。 サンフランシスコ地区では1952年3月7日、オンブレ・モンタナと組んでロニー・エチソン&サンダー・ザボーを破り、サンフランシスコ版のNWA世界タッグ王座を獲得。翌1953年5月6日にはエンリケ・トーレスをパートナーにシャープ兄弟から同王座を奪取している。その間の2月3日、アメリカ修行中だった力道山とサンフランシスコにて初対戦。6月16日にはルー・テーズの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。 1955年3月22日、再びルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、反則勝ちで勝利を収める。引き分けを挟んで936連勝を記録していたテーズの連勝記録をストップさせた。ベルトの移動は無かったものの、ノメリーニは王者としてロード・ブレアースやマイク・シャープを相手に防衛を続けたが、7月15日にミズーリ州セントルイスで行われたテーズとの再戦で敗退した。 以降もサンフランシスコ地区を主戦場に、1956年はグレート東郷&トシ東郷のトーゴー・ブラザーズとも対戦。1957年5月2日には、カリフォルニア州モデストにてアメリカ遠征中の力道山とタッグを組んだ。 1960年4月に日本プロレスに来日し、第2回ワールド大リーグ戦にイタリア代表として出場。開幕戦ではサニー・マイヤースと対戦し時間切れ引き分け。大会2日目はかつてのパートナーであるオンブレ・モンタナと対戦、160kg級の巨漢モンタナをタックル1発で場外に吹っ飛ばし、リングアウト勝ちを収めた。予選リーグではトップの戦績で勝ち進み、優勝決定戦に進出、予選リーグ2位の力道山と決勝を争ったが、得意技のタックルを自爆して場外に転落し、優勝を逸した。 1960年代初頭はAWA圏で活動し、1961年4月26日にジン・キニスキーのUSヘビー級王座に挑戦。5月23日にはウイルバー・スナイダーとのコンビでキニスキー&ハードボイルド・ハガティからAWA世界タッグ王座を奪取。以降もキニスキーと抗争を展開し、6月から7月にかけてキニスキーのUSヘビー級王座に再三挑戦した。 本拠地のサンフランシスコでは、1962年5月17日にペッパー・ゴメスと組んで日系レスラーのキンジ渋谷&ミツ荒川が保持していたサンフランシスコ版(アメリカン・レスリング・アライアンス認定)のAWA世界タッグ王座に挑戦。5月26日にはレイ・スティーブンスのUSヘビー級王座に挑戦した。 1963年にアメフトを引退。プロレスもセミリタイアするが、1960年代中盤まで太平洋岸やハワイの試合に出場しており、ハワイでは1965年3月19日にフレッド・ブラッシーと対戦。その後レスラーも引退し、レフェリーを務めていたこともあった。 晩年は脳卒中を患い、2000年10月17日に死去。76歳没。
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