プレ退廃芸術展とプレ大ドイツ芸術展
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「退廃芸術」の記事における「プレ退廃芸術展とプレ大ドイツ芸術展」の解説
この後、同様に近代美術の収蔵品を晒し者にして糾弾する展覧会がドイツ全土で開かれた。ケムニッツでは『われらの魂から生まれたのではない芸術』のタイトルのもと開催された。ハレやニュルンベルクでは『恐怖美術館』と銘打たれた。1935年9月にはドレスデンでその名も『退廃芸術展』が開催され、全国を巡回した。これらは手法も目的も1937年のミュンヘン『退廃芸術展』に先立つ展覧会であった。 さらに、これに対して望ましい作品を展示する、1937年のミュンヘンの『大ドイツ芸術展』を先取りする展覧会も各地で開かれている。1934年に「ドイツ文化のための闘争同盟」の一部によりハレで開催された展覧会では、退廃芸術と純粋ドイツ芸術を同時に展覧した。ハンス・アドルフ・ビューラーとファイステル=ローメーダはカールスルーエで『純粋ドイツ美術巡回展』を開催している。これらは「一旦退廃美術に眼をくらまされたドイツ民族に、純粋ドイツ美術の作家たちの作品を見せて民族の本質と偉大さを悟らせる」ためのものであった。 また各地の美術館長・職員・美術学校教員ら(その多くが国家公務員であった)が、「文化ボルシェヴィズム」作品購入の責任を問われ、新しい「職業官吏制度復活法」によってナチ寄りの職員に差し替えられて職を追われた。特にベルリンのナショナル・ギャラリーが槍玉に上った。ナショナル・ギャラリーは君主制崩壊後の1919年、保守派の美術評論家の反対の中、かつての皇太子宮殿を近代美術専門館へと模様替えし、世界の公立美術館・近代美術館から手本とされるような近代美術館を作り上げていた。しかし1933年、1909年の館長就任以来、同時代美術の擁護者として知られた館長ルートヴィヒ・ユスティらが異動・解雇させられた。ユスティはかねてから「絵画嵐」の中で攻撃を受けていたが、19世紀のイタリアの画家ミケッティの作品と「イタリア人無名現代画家」の作品15点を交換したことが非難を浴びた(「無名の現代画家」とは、ジョルジョ・デ・キリコやアメデオ・モディリアーニたちのことである)。ユスティ以後ナショナル・ギャラリーの館長は次々に代わったが、館長たちは表現主義者をドイツ民族の芸術の系譜に位置づけるような展示方法や講演などによって民族主義者から近代美術を弁護し、あるいは目立つ前衛画家の作品を少しずつ収蔵庫にしまいながら表現主義や海外作家らの展示を続けていた。ベルリンオリンピックの際には中世から近代美術に至るまでのドイツ芸術の特別展が組まれ、国内外の観客が多数詰め掛けた。しかしついにオリンピック後の1936年8月、ナショナル・ギャラリー近代絵画館は閉鎖され、数日内にドイツ国内の美術館における近代美術の展示は禁止された。 画家でジャーナリストのヴォルフガング・ヴィルリヒは1937年、『芸術神殿の清掃』という著書を出した。後に国民啓蒙・宣伝省に派遣され各地で「退廃芸術作品狩り」を行う彼は、この本で近代美術家の多くを健康でも誠実でもない退廃芸術家だと罵ったが、その書物の章立てや構成はこの年のミュンヘン『退廃芸術展』の展覧会構成に反映されたと思われる。
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