プレーム政権時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 09:03 UTC 版)
「タイの歴史 (1973年 - )」の記事における「プレーム政権時代」の解説
1981年4月、「青年トルコ党員」として一般に知られているチャラート陸軍大将の徒党はクーデターを企画し、バンコクを占領した。チャラートは国民議会を解散させ、全面的な社会変革を約束した。しかし、プレームが王室をコラートに伴うと、チャラートの地位は崩壊した。国王のプレームへの支持が明確になると、宮殿お気に入りのアーチット陸軍司令官率いる忠実な王党派の部隊により首都は無血で奪還され、チャラートは処刑された。 このエピソードは、未だに君主制の威信を上げており、また相対的な中道主義者としてのプレームの評価を高めた。反乱は終わり、そして元学生ゲリラの大部分は恩赦の下でバンコクに戻った。1982年12月、タイ軍の最高司令官は、共産主義武装勢力や支持者が兵器を提出し、政府に忠誠を誓うことの宣伝のためにバンコクで開催された式典でタイ共産党旗を受け入れ、武装闘争の終わりを宣言した。軍隊はバラックに戻り、そしてさらに別の憲法が発布され、一般から選出された国民議会のバランスを取るために上院を創設することが約束された。選挙は1983年4月に行われ、今や文民政治家の顔をしたプレームに議席の大多数が与えられた。 またプレームは、東南アジアの広範囲に広がりが加速する経済革命の受益者であった。1970年代半ばの不況の後、飛躍的に経済成長した。タイは初めて主要な工業国になり、主な輸出品としてコンピューター部品、織物、靴のような製造加工品は、それまでの米、ゴムおよび錫に追いついた。インドシナ戦争とタイの内乱が終わるにしたがって観光産業は急成長し、主要な産業となった。都市人口は急速に成長し続ける一方、農村地域の生活水準の向上に伴い総人口の成長は減退したが、イーサーンはそれでも取り残された。タイは台湾や韓国のような「アジア四小龍」のような速さではないものの持続的成長を達成した。 プレームは1983年と1986年の2つの総選挙を乗り切って8年間在職し、個人的な人気を保持し続けていたが、民主政治の復活はより大胆なリーダーの要求につながった。1988年の新しい選挙は、チャートチャーイ・チュンハワン元司令官に権力をもたらした。プレームは大政党が申し出た3期目の首相職を辞退した。 プレーム政権時代はまた、大赦によって政府と共産主義者の激しい争いを終わらせたことで特筆できる。都市から逃れた学生は、結局は共産党に加わっていた。
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