ブラジルの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/07 17:22 UTC 版)
19世紀中期、ブラジル帝国はラテンアメリカで最も裕福な国、そして最も有力な国であった。ブラジルは民主的な制度と君主立憲制のもとで繁栄し、ラテンアメリカでよく見られたカウディーリョ、独裁者、クーデターの脅威とも無縁であった。しかし、ブラジル皇帝ペドロ2世の幼少期にあたる1830年代にはいくつかの州での権力闘争により反乱がおき、うちファラーポス戦争(英語版)は前出の通り、ベント・ゴンサウヴェス・ダ・シウヴァ(英語版)率いる反乱であった。 ブラジル帝国にとって、アルゼンチン連邦党の拡張主義的な計画は国の存続にかかわる危機であり、ブラジルの南に位置する諸国に対するブラジルの覇権への脅威でもあった。もしアルゼンチンがパラグアイとウルグアイの併合に成功してリオ・デ・ラ・プラタ副王領を再建した場合、ラプラタ川もその支配下に置かれ、リオデジャネイロとマットグロッソ州の連絡が切断される恐れが出てくる。河川の交通が断たれた場合は陸路が使えるが、水路では数日かかるのに対し、陸路は数か月かかる。また、ロサスに侵攻される恐れがあるため、ブラジルはアルゼンチンと国境を隣接したくなかった。 ロサスの脅威をめぐり、ブラジルの内閣はその解決策について意見が相違した。閣僚の一部はブラジルの戦争準備が整っていないと感じ、敗北した場合は1820年代にシスプラチナを失ったとき、ペドロ2世の父ペドロ1世が退位したように政局が混乱すると考えて、なんとしても平和裏に解決すべきと主張した。ほかの閣僚は軍事行動でしか脅威を取り除けないと主張した。しかし、1849年にはタカ派のパウリーノ・ソアレス・デ・ソウサ(英語版)(後にウルグアイ子爵)がブラジル外相に就任した。彼は外国援助に頼らずにアルゼンチンの脅威に対処するとの考えを明らかにし、「帝国政府はラ・プラタ地域の事柄に関連するフランスなどのヨーロッパ諸国との同盟を望まない。これらの事柄は(わが国と)緊密な関係を擁する国によって解決されなければならない。[...]帝国政府はヨーロッパのアメリカに対する影響力を容認しない。」と宣言した。すなわち、ブラジル帝国はその勢力圏を南米全体に広げようとしたのであった。 ブラジルの内閣はラ・プラタ地域の複雑な情勢の解決策として、下記のようなリスクの高い策を選択した。ブラジル陸軍を築き上げるために徴兵することは資金がかかるため、徴兵はせず、代わりに常備軍に頼った。ブラジルは派遣軍を送り、ラ・プラタ地域を守備した。当時、ブラジルの強みは現代化された強力な海軍、そして数々の戦争を戦い抜いた経験豊富な陸軍だった。それまで、ほかの南米諸国は本物の海軍や正規軍を有しなかった。ロサスやオリベの軍勢は支持者のカウディーリョから借りた非正規軍が大半であった。その10年後でもアルゼンチンは戦場に6千の軍勢しか出せなかった。また、ブラジルはロサスの戦略を採用して、ロサスの政敵に資金援助を与えてロサスを弱体化させようとした。
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