パラグアイとウルグアイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/07 17:22 UTC 版)
「ラ・プラタ戦争」の記事における「パラグアイとウルグアイ」の解説
ラ・プラタ地域の河川が航行できるようになったことで、パラグアイはヨーロッパの技師とブラジルの専門家と契約して自国を発展させることができるようになった。外界との連絡ができるようになったことで、パラグアイはより先進的な軍事技術を輸入できるようになり、独裁者カルロス・アントニオ・ロペスは1850年代の大半を通じて、パラグアイ川の自由航行を狙ったブラジル船を妨害した。ロペスはマットグロッソ州がブラジルからの侵攻の基地になることを恐れたのであった。また、同地域ではパラグアイとブラジルの間の領土紛争もあった。さらに、アルゼンチンとの国境線制定も難航した。アルゼンチンはグランチャコ地域の全体を要求したが、この条件を飲むにはパラグアイが国土の半分を割譲する必要があったため、到底受け入れられるものではなかった。 ラ・プラタ戦争の終結はラ・プラタ地域の紛争を終わらせはしなかった。ウルグアイには平和が訪れず、ブランコ党とコロラド党の抗争で不安定のままだった。国境紛争、党派間の抗争、そして地域と内部の影響力を強める試みはウルグアイ戦争の引き金になり、後のパラグアイ戦争をも引き起こした。
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