フラッド訴訟の敗訴と年俸調停制度の導入
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「1972年のメジャーリーグベースボール」の記事における「フラッド訴訟の敗訴と年俸調停制度の導入」の解説
3年前の1969年10月にカージナルスがカート・フラッドらをディック・アレンらとの交換でフィリーズにトレードしようとしてフラッドが拒否し、翌1970年1月にトレードの強制は独占禁止法に違反するとして保留条項に異議を唱えて野球機構を裁判所に訴えたフラッド訴訟は、予審で却下された後に翌1971年に控訴審でも予審判決を支持することで決着がつきフラッドはこの年に引退した。しかし翌年1972年3月に連邦最高裁はフラッドの上告を認めるかを検討するために口頭弁論が行われ、最高裁判事の中で審議の結果5対3で控訴審判決を支持することで最終決着となった。ただ3名の判事が異論を述べ、判事の1人サーグッド・マーシャルは「保留条項はあってはならない、議会はこの忌まわしいものを黙認していない、裁判所がその誤りを正すべきだ」との意見を出した。その後ウォーレン・バーガー最高裁長官は旧友でもあったハリー・ブラックマン判事に意見書の作成を命じ、6月にその意見書が公表された。「1922年のフェデラルリーグ訴訟」における最高裁判断をこれまで最高裁が維持しているが、既にプロスポーツにおいてボクシングやバスケットボール・フットボール・アイスホッケーなどは独占禁止法の対象とする判例があり、もはやあらゆるプロスポーツで唯一野球だけが1つの例外である事実は、最終的に1950年代にも議論があったように議会が結論を出すべき(法律を制定する)ことであり、ブラックマン判事は議会が法律を制定しないことで法律を制定したことになる、という論理で50年前の最高裁判例を最高裁自身で変更することは出来ない、とする「先例拘束の原則を順守する」と結論づけていた。 カート・フラッドの闘いは、裁判に敗れ、結果として自らの選手生命を失い引退の道を歩んだが、その努力は無駄にはならなかった。保留条項の問題が最高裁判事の中でも問題とする意見が出たことは大きく、ミラー事務局長は1972年から1973年にかけての交渉で保留条項を終わらせるように圧力をかけたがオーナーたちは抵抗した。その代わり年俸に関して紛争が起こった場合は仲裁人の調停で解決するという特異な方法を提案した。この年俸調停制度はオーナーと選手が合同で指名した中立の仲裁人が調停に入り球団側の最終提示額と選手側の最終要求額のいずれかを選択するもので最終的に仲裁人の調停での決定は球団も選手も拘束するものとされた。翌1973年のシーズン後からこの最終提示仲裁は始まった。この制度はある部分では球団側に有利に決着することが多かったとの見方もあるが、しかし3年後に思わぬ落とし穴からオーナーたちが思ってもいなかった事態が生じ、やがてこの年俸調停制度の過程からフリーエージェント制度導入の契機が生まれることになる。カート・フラッドには裁判の期間でミラー事務局長は支援したが、彼を応援する現役選手は無かった。彼が愛したカージナルスからもトレード通告で終わり、何も残ったものは無かった。しかし100年近く続いた選手を縛る保留条項を突き崩す最初の一撃を打ち込んだのはフラッドだった。フラッドの闘争はこの後の一連の改革の呼び水となった。
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