フッサール家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「フッサール家との関係」の解説
フッサールの息子ゲアハルトはキール大学で1933年に休職処分を受けて、1933年4月7日の公務員職再建帝国法(Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums)により免職されている。この法令は定年退職者も対象となっており、すでに1928年に退官していたエドムント・フッサールも、ハイデッガーが学長になる前の1933年4月14日に休職処分をうけ、フッサールは第一次世界大戦時には家族全員でドイツ国民としての信条を持っていたのにこうした措置を受けたことは「生涯で最も大きな侮辱」と述べている。1935年に制定された帝国国民法(帝国市民法、Reichsbürgergesetz)(ニュルンベルク法)によってフッサールは1936年に教育権限を剥奪され、フライブルク大学講義要綱からも名前が消された。 これに関して「ハイデッガーが師のフッサールに対して大学や大学図書館への立入り禁止をした」という俗説がある。 1946年初め、ハンナ・アーレントはパルチザンレビューで「実存哲学とは何か」を発表し、脚注でフッサールの追放にハイデッガーが関わったと書いた。ヤスパースがこの俗説は正確ではないと訂正を行い、職務上の指示に署名したので、職務上の指示に署名したのではないかと述べると、アーレントはハイデッガーは「潜在的犯罪者」であると主張した。しかしヤスパースとの書簡でのやりとりを経てアレントによるハイデッガーへの攻撃は軟化していった。 ハイデッガーは1945年秋の弁明書においてこのフッサールへの立入り禁止という俗説は「はなはだ卑劣な中傷であります。私はフッサール先生に対する感謝と尊敬の念を忘れたことはありませんでした。ただ、哲学上の仕事ではしばしばフッサールと立場を異にするようになり」、1933年以前には疎遠になったこと、フッサール死去の際にはハイデッガーも病に倒れていたこと、しかし回復後も手紙を出さなかったことは怠慢であったと述べた。また1933年5月にフッサール家へ届いたエルフリーデ・ハイデッガーからの書簡では、フッサール夫妻が第一次世界大戦後にハイデッガー家へ好意と友情を示してくれたことを忘れることはないし、フッサールの息子ゲアハルトが休職処分が受けたことには大変驚いたとともに下級役所の一時的措置にすぎないことを願うと書かれていた。 フーゴ・オットによれば、ハイデッガーは学長として大学図書館への立入り禁止をした事実はなく、禁止したという非難は間違った非難であるとしている。フッサールとハイデッガーはナチス登場以前に仲違いをしており、1923年7月14日にハイデッガーはヤスパースへの書簡でフッサールは自分を「ドイツの指導者Praeceptor Germaniaeとでも考えているようです」と批判し、1926年12月26日の書簡では『存在と時間』はフッサール批判でもあると述べている。フッサールも1931年1月6日のアレクサンダー・プフェンダー宛書簡で、1928年にハイデッガーは学問的な対話を避けたし、またハイデッガーによるフッサール哲学への批判は誤解に基づくもので、10年間親友であったがこの関係は終わったと述べ、1933年5月4日の手紙では人柄を信頼していたハイデッガーには「一番つらい思いをさせられた」と述べ、ハイデッガーが入党したことに深い失望を覚えたとマーンケ宛書簡で述べている
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