ピークの年代(1960年代-1970年代)
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「アンディ・フレイザー」の記事における「ピークの年代(1960年代-1970年代)」の解説
フレイザーはロンドン中心部のパディントン地区で生まれ、5歳でピアノを始めた。ギターに切り替えた12歳まではクラシックを学ばされていた。13歳に至るまでに、イーストエンドのウェスト・インディアンにある複数のクラブで演奏するようになり、1968年に15歳で退学となった後、ハマースミス継続教育大学に入学した。そこで、同じ学生であったサッフォ・コーナーが彼女の父親に紹介し、ブルースの先駆者でラジオ・パーソナリティーでもあったアレクシス・コーナーが、彼にとって父親的存在となった。その後まもなく、ベーシストを探していたジョン・メイオールから電話を受けたコーナーは、フレイザーを提案した。当時まだ15歳で、プロのバンドに所属して、週に50ポンドを稼ぐこととなったが、最終的には短い在籍期間であることが判明した。 コーナーはまた、ポール・ロジャース(ボーカル)、ポール・コゾフ(ギター)、サイモン・カーク(ドラム)で構成された影響力のあるバンド、フリーへと向かうフレイザーの次の動きに尽力した。フレイザーは、ロジャースと「オール・ライト・ナウ」をプロデュースして共同で作曲。これが、20以上の地域でナンバー1ヒット曲となり、1989年後半までにアメリカで100万回以上のラジオ・プレイを獲得したことが、1990年にASCAPから認められた。2006年10月、「オール・ライト・ナウ」が300万回以上もラジオやテレビ番組で流されたとして、BMIのロンドン・ミリオン・エア・アワードがロジャースとフレイザーに与えられた。サイモン・カークは、「『オール・ライト・ナウ』はダーラムでのひどいギグの後に作られたんだ。我々はショーを終えると、自分たちの足音とともにステージを降りた。ドラムライザーを離れる前に、もう拍手は消えていたんだ。つまり、ショーを終わらせるには、よりロックなナンバーが必要だってことが明らかにされたってわけだ。そのとき、突然インスピレーションがフレイザーを襲ったようで、彼は『オール・ライト・ナウ』って歌い始めた。そしてドレッシング・ルームに座り込んですぐにそれを書いたんだ。10分もかからないくらいのことだったよ」と後に語った。 フレイザーはまた、他の2つのヒット・シングル「My Brother Jake」と「スティーラー」を共同で作曲した。フリーは1971年に最初に分裂することとなり、フレイザーはギタリストのエイドリアン・フィッシャー(後にスパークス)、ドラマーのスタン・スピークとのトリオ、トビーを結成した。マテリアルはレコーディングされたもののリリースされず、フレイザーは1971年12月、フリーに再び加わった。そして1972年6月に2度目の脱退となる。 フリーを脱退した後、フレイザーはボーカリストのスニップス(後のベイカー・ガーヴィッツ・アーミー)、ギタリストのクリス・スペディング、ドラマーのマーティ・サイモンとシャークスを結成した。とりわけスペディングの趣味の良いギター作品(クロウダディ・リードのレビュー、Bruce Malamut Vol.27、1973年)で、批評家たちに好評だったにもかかわらず、フレイザーはデビュー・アルバム『ファースト・ウォーター』(1973年)の後に脱退した。 その後、アンディ・フレイザー・バンドを結成。これは、ドラムにキム・ターナー、キーボードにニック・ジャッドを迎えたトリオである。彼らは2枚のアルバム『アンディ・フレイザー・バンド』と『...In Your Eyes』をどちらも1975年にリリースしたが、注目はされなかった。フランキー・ミラーとバンドを結成する試みが無に帰すと、フレイザーは作詞作曲に専念するためカリフォルニアへと転居した。彼はロバート・パーマー、ジョー・コッカー、チャカ・カーン、ロッド・スチュワート、ポール・ヤングのヒット曲を作り上げた。 フレイザーの最も有名な作曲作品は、「オール・ライト・ナウ」と、ロバート・パーマーが1978年に彼のアルバム『ダブル・ファン』のために録音した「Every Kinda People」である。
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