ヒロポン・アドルム中毒
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1948年(昭和23年)1月に『二流の人』(九州書房)を刊行。「淪落の青春」(未完)を『ろまねすく』に発表。伊藤整や太宰治、林房雄らのいる『ろまねすく』は前年8月に同人となった。2月に『金銭無情』を文藝春秋新社から刊行する。この頃からヒロポンに加え、アドルムを服用するようになり、ちょうど太宰治の自殺した6月頃から、鬱病的精神状態に陥る。これを克服するために、短編やエッセイの仕事は断り、長編「にっぽん物語」(のち『火』)の連載執筆に没頭する。しかし不規則な生活の中でアドルム、ヒロポン、ゼドリンを大量に服用したため、病状は更に悪化し、幻聴、幻視も生じるようになる。12月、執筆取材のために京都へ行くが発熱し旅館に病臥する状態だった。翌1949年(昭和24年)1月に戻った後にはアドルム中毒で狂乱状態、幻視、神経衰弱となり、夫人や友人達の手により2月23日に 東京大学医学部附属病院神経科に入院した。3月に「にっぽん物語―スキヤキから一つの歴史がはじまる」を発表(続きは5月-7月まで)。 4月に薬品中毒症状と鬱病は治まり、「僕はもう治っている」を『読売新聞』に発表する。「にっぽん物語」の完成を目指し、置手紙を残して外出先から電話をかけて病院を自主退院する。6月には「精神病覚え書」を『文藝春秋』に発表。8月に推理小説「復員殺人事件」を『座談』に連載開始し、本格推理小説で新境地を拓くが、載誌が廃刊となったため翌年3月に第19章までで中絶となる。未完となった「復員殺人事件」はその展開を惜しまれ、他の探偵小説を書く暇があるのなら、これを完結させるべきだったと大井広介はのちに安吾に苦言を呈している。生活のために執筆を再開するが、軽く使用した薬物のために病気が再発し発狂状態となる。やむなく夫人とともに静岡県伊東市に転地療養し、温泉治療でなんとか健康を取り戻し、11月に伊東市岡区広野1-601の借家に移転し、犬を飼いはじめる。なお、この1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)まで5年間、芥川賞選考委員を勤め、五味康祐『喪神』、松本清張『或る「小倉日記」伝』を強く推すなど新風を吹き込んだ。
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