ハーモニカの日本への渡来と国内企業の誕生
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「ハーモニカ」の記事における「ハーモニカの日本への渡来と国内企業の誕生」の解説
ハーモニカが日本に渡来した正確な時期は不明である。正規の輸入や一般販売の記録は、1896年(明治29年)8月刊の『手風琴独まなび』に掲載された広告に「西洋横笛(ハーモニカ)25銭、30銭、50銭、80銭、1円20銭、2円、2円50銭 、呼吸に任す自在の袖珍楽器なり」とあるなど、明治20年代までさかのぼることができる。 明治末には日本産の製品開発が始まる。1910年(明治43年)、日本国内でハーモニカの製造に最初に成功したのは、鶯声社の小林政次郎だった(K. ŌSEISYA. と社名が箱に書かれている ECHO HARMONICA が国内向けではヒットした。また、Music Master という12穴ハーモニカは輸出もされていた)。 その後、小さな町工場などで多数のハーモニカが作られていったが、1902年(明治35年)創業の玩具の卸問屋からスタートした真野商会が、ホーナー社の不良品を買い取り玩具のハーモニカを製作したところ大変好評だったため、他社を吸収合併して、初めて企業としてのハーモニカを日本で大規模に製造したのが、後に、トンボを企業のマークとした、トンボ楽器製作所である。ハーモニカ製造は1917年ごろからスタートしているので、現存する国内企業としてはトンボ楽器製作所が最古のハーモニカ製造企業となる。 やや遅れて、蝶をマークとして採用した日本楽器製造(現・ヤマハ)がこれに続き、かなり遅れて1952年(昭和27年)に操業を始めた鈴木楽器製作所が本格的に参入する。そのほかにも、ヤマト、東海楽器などそのほかにも様々な小規模企業が出来た中、3度の大きな戦争を迎えて、国内で現存する企業は、トンボ楽器製作所、ヤマハ、鈴木楽器製作所の3つに集約されたが、2016年現在、ヤマハ(旧・日本楽器製造)は学習用ハーモニカ数種のみしか販売しておらず、本格的なハーモニカの第一線からは退いた。依って国内企業で現在のハーモニカ・メーカーとしての地位に有る企業は、トンボ楽器製作所と鈴木楽器製作所のみである。日本最古のハーモニカ・メーカーの鶯声社は第二次世界大戦時の東京大空襲で焼失した。当時、鶯声社に在籍していた早乙女勝元は後に『東京大空襲』を執筆している。 大正から昭和初期にかけてハイカラ好きの若者の間でハーモニカは人気があり、日本では太平洋戦争終了以前は、「口琴」とも言われていた。プロの間では以前はこの言葉が使われていた。中国語圏では現在でもこの表記が通用する。1905年(明治38年)、日本で販売されたホーナー社のハーモニカ名は「カチドキ笛」である。日露戦争時に販売されたためにつけられた名前であり、ホーナー社の商売の巧さを垣間見ることが出来る。それらの流行から、大正から昭和初期にかけて各大学などにもハーモニカ・アンサンブルが作られるなど、マンドリンと人気を二分した。
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