ハリウッドをオープン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:33 UTC 版)
1960年(昭和35年)3月、「新橋ハリウッド」をオープンさせる。3階建ての民謡酒場を改造し、1、2階を吹き抜けにし、3階はホステスの住み込み用とした。以後、渋谷、横浜、池袋、銀座と毎年1店舗ずつ「ハリウッド」を開店した。中でも目玉となったのは、64年9月21日、銀座8丁目の観光会館(現:博品館)の5階建てを丸ごと使った銀座店。1000坪の巨大キャバレーで、ホステスは800人以上、銀座初の現金制を採用した。 1965年(昭和40年)1月6日付の『伊豆新聞』が「キャバレー王」が妻良の土地5ヘクタールを買収、ヨットハーバー・レストハウス・貸別荘などの観光開発計画を発表し注目を集めると報じたが、周囲の反対で実現に至らず、また江ノ島に浮世絵美術館を建設する計画をすすめたこともあった。30代から株の売買を手掛け、大株主として会社四季報に名前が載り、他社株を買い占め合併することで、キャバレー業単独では難しい株式上場の夢を実現しようと、スバル興業の株を買い集めるが、同社から牽制され、67年に売り抜ける。この年には翌年の参院選出馬を検討するも、票読みが35万票で断念する。 1972年(昭和47年)、朝日麦酒(現:アサヒビール)系列でビヤホールを運営するニューアサヒ社長に40歳で迎えられる。翌年のオイルショックで銀座も接待費削減で高級店が苦戦することを尻目に、自腹客の多かった銀座ハリウッドは1日1000人以上が押しかける繁盛ぶりを見せる。76年、銀座店は6丁目のパレ銀座ビル7階に移転する一方、ハリウッドのフランチャイズ展開を開始。ジャンジャン儲かり、銀座店はドル箱となり、65年から78年までハリウッドは料亭・キャバレー部門で納税額日本一を続け、業界の顔として東京キャバレー協会会長も務めた。 1980年代前半頃から本格的に株に取り組み、不況やピンク産業の影響による本業の赤字をそちらでカバーしていたが、87年のブラックマンデーで株に利益はパーに。逆に本業の利益は前年を上回る。ニューヨークのオークションで満谷国四郎の『軍人の妻』を落札した90年には、株はバブル景気末期の暴落とフセイン・ショックで、またも大損に。97年に脳梗塞で倒れたが、リハビリを続け、2003年(平成15年)仕事に復帰。07年には千葉県柏市に久々のハリウッドを新規開店し、キャストの低年齢化と入れ替わりの激しいキャバクラ全盛の時代に、長期雇用の促進を目指した。 2018年5月29日、老衰で亡くなる。享年86。7月に北千住ハリウッドで営まれた「キャバレー葬」はテリー伊藤が司会を務め、喪服禁止の陽気な会で、みのもんたなどの有名人はもちろん、昔ホステスとして務めていた感じの女性など多数参列した。
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