ハイズヴィル事件以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 10:18 UTC 版)
フォックス姉妹以外の霊媒も登場し、あっという間に全米を心霊ブームが席巻した。心霊主義は難解な教義を持たず、誰にでも参加することができた。霊媒の多くが女性だったため、フェミニズム関係者からの支持もあり、霊媒に美女が多かったことから、男性の支持も得た。1855年にはアメリカだけでおよそ100万人が心霊主義を受け入れており、貴族や企業家などの上・中流階級、作家や科学者などの知識人といった社会的エリートも多く含まれていた。美女霊媒で人気を集めた交霊会は、マジックのような見世物ショーになっていった。 1840年代には大西洋を横断する巨大蒸気船が運航し、アメリカの情報はほぼ同時にヨーロッパにもたらされ、人の交流もそれまでとは比べ物にならないほど盛んになった。アメリカの霊媒が続々とヨーロッパに渡っていき、霊媒による交霊会や心霊現象という心霊ブームは、ヨーロッパにも広がっていった。 中でもイギリスでは、階級を問わず広く社会現象となった。心霊主義の流行は、完成された共同体、世俗的千年王国の到来を告げるものとしても受け入れられた。イギリスの社会改革家でユートピア的共同体を作ったロバート・オウエン(1771 - 1858)は、伝統宗教が自分の宗教以外の人々への偏見を育てると考え全ての宗教を否定したが、1853年に心霊主義に帰依した。オウエンは、友人でフリーメイソンの指導者であったケント公エドワードやジェファーソン大統領の霊との交流で、社会改革に関する重要な指針を得たと語り、心霊を「長い間待ち望んでいた千年王国の先触れ」と見なしていた。その息子で駐ナポリ公使であったロバート・ディル・オウエンは、霊のメッセージが現れる自動筆記を体験して、1860年に『別世界の境界の足音』を出版、英米で心霊主義を単なる流行ではなく思想として浸透させた。1871年の著作では、心霊主義を偽りのない真の現象であると主張しており、心霊主義はこの時点で、社会的身分の高い人物によって一種のお墨付きを得たことになる。 心霊主義はイギリスからフランスにも飛び火した。南米にも伝わり、1853年のブラジルのリオデジャネイロの新聞に心霊主義の記事が掲載され、翌月には市内の富裕層が娯楽として楽しむようになった。 こうした19世紀半ばから19世紀末の心霊ブーム、その思想と実践およびその周辺は、心霊主義(スピリチュアリズム)のはじまりとなり、今世紀にかけて世界的に大きな影響力を持った。
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