ハイセイコーと低迷の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 04:57 UTC 版)
「南関東公営競馬」の記事における「ハイセイコーと低迷の時代」の解説
1972年、大井競馬場でのちに国民的アイドルホースとして第一次競馬ブームを担うハイセイコーがデビューする。6戦6勝で青雲賞を制したのちに中央競馬へと移籍していったこのハイセイコーの活躍に推されて南関東競馬も売上を伸ばし、1973年度には総売上が2000億円を突破した。ところが、これ以後は70年代を通じて第一次オイルショックの狂乱物価によるインフレにもかかわらず額面上の売上増は鈍化し、1980年の約2445億円をひとつのピークとして減少に転じる。そして1984年には、1800億円を割るまでに落ち込んだ。 これに前後する時期は、南関東競馬にとっては難問が続いた。1961年の川崎事件のような騒擾事件は過去にもあったとはいえ、1968年には7月30日に浦和で、穴馬同士の決着にもかかわらず異常な低配当であったことに端を発する300人規模の騒擾事件が発生したと思うと、その翌日には当時23歳ながらリーディング上位につけていた福永尚武が別件の八百長による競馬法違反で逮捕されている。1972年8月には大井でやはり若手騎手による八百長事件が発覚し、これ以後山岡事件で中央競馬に導入された調整ルームと同様の施策が南関東競馬でも採られることとなった。さらに1968年には延長を続けていた八王子市ら指定市分の開催権が消滅し、1969年1月には美濃部亮吉都知事が都営ギャンブルを「社会的公害」として、都営の大井競馬開催を含めたその廃止を発表している。実際のところ、1980年代初頭の船橋などは、特観席(指定席)をノミ屋が占領しているようなことすらある有様であった。 競走馬についても、中央競馬への移籍はカツアールが成功した程度であり、ハツシバオー、ゴールデンリボー、サンオーイら南関東三冠馬や、アズマキングなどもパッとしない戦績に終わっている。1973年より中央側で地方競馬招待競走が、大井競馬場で中央競馬招待競走が施行されたが、お互いに地元では勝ち星を挙げるも相手側に乗り込むと奮わなかった。 アングロアラブについては、1960年代後半には他地区の地方競馬場も売上を伸ばし、とりわけアングロアラブのみで競馬を施行していた兵庫県競馬組合の賞金水準は南関東競馬のアラブ競走を上回るまでになった。1972年には南関東アラブ三冠の1冠目・千鳥賞を目前に控えながら、タイムラインが2000万円もの高額で園田競馬場へと引き抜かれている。そのほかミスダイリンやキンカイチフジに代表されるように道営競馬や東海地区所属馬の強豪も登場し、アラブ大賞典は1972年より全国交流の全日本アラブ大賞典となって、その対決の場を提供した。一方で、1973年より同じく全国交流化された園田競馬場で行われる楠賞全日本アラブ優駿へ南関東公営競馬所属馬も遠征しており、ホクトライデン、トライバルセンプーらがこの時期の同競走を制している。
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