ドイツ本土防空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/26 09:09 UTC 版)
「ゲルハルト・バルクホルン」の記事における「ドイツ本土防空戦」の解説
1月16日、バルクホルンはドイツ本土防空に当たる第6戦闘航空団司令に任命されフォッケウルフ Fw190Dに機種転換したが、充分な慣熟訓練を行えなかったこともあって同機と彼自身との相性は決して良いものではなく、後に「慣熟訓練にあと50時間は欲しかった」と述懐している(後にJG6はFw190D、Bf109G-14そしてBf109Kの混成部隊となる)。JG6はほとんどが新人とBf110から機種転換してきたパイロットから構成されていたが、バルクホルンと同様に新機材への慣熟訓練すらままならない中での実戦参加となったため、結果アメリカ空軍を相手に多大の損失を被った。バルクホルンは4月10日までJG6を指揮したが過労で体調を崩し入院、同職を解任された。 この頃、すでにドイツ空軍は壊滅状態であった。戦闘機隊総監を解任されていたアドルフ・ガーランド中将は、ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262で構成された第44戦闘団(JV44)を結成し、ドイツ空軍の精鋭を集めて最後の戦いを挑もうとしていた。バルクホルンは入院中であったがこれに志願し、4月15日、JV44に転属した。しかし逼迫した戦局の中、病み上がりの上にJG6時代と同様にレシプロ機からジェット機への転換訓練もままならなかったバルクホルンはこの部隊で戦果を上げることは出来なかった。 4月21日、1104回目の出撃が、バルクホルンの最後の出撃となった。アメリカ軍爆撃機編隊に接近したところで不意に片方のエンジンが停止して緊急着陸が必要となり、飛行場へ向かうところを数機のP-51に狙われた。バルクホルンは被弾し燃え上がるMe262を何とか着陸させ、爆発前に脱出したものの、その際搭乗機の風防枠に頭部を強打して負傷し病院に搬送され、そのまま終戦を迎えた。バルクホルンはアメリカ軍の捕虜となったが、9月には解放された。 第二次世界大戦を通してのバルクホルンの戦績は出撃回数1104回。少なくとも500回の空戦機会があり総撃墜数は301機。9回撃墜され、うち1回ベイルアウトし、3回負傷した。
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