デ・ラ・ウェア伯爵家による開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 18:24 UTC 版)
「ベクスヒル=オン=シー」の記事における「デ・ラ・ウェア伯爵家による開発」の解説
1813年にはドーセット公爵家のエリザベスが5代目デ・ラ・ウェア伯爵と結婚し、1865年にドーセット公爵家の男系が絶えた際にはデ・ラ・ウェア伯爵とその妻エリザベスがベクスヒルを相続した。 田舎の小さな村だったベクスヒルを海辺の高級リゾート地に変えようと考えたのは、7代目デ・ラ・ウェア伯だった。彼は建築家のジョン・ウェッブと契約して最初の防波堤を建設し、デ・ラ・ウェア・パレードを整備した。ウェッブは仕事の報酬の一部として、シーロードからポールグローブまでの、鉄道南側の土地をすべて与えられた。1890年にオープンしたサックビル・ホテルは、第7代デ・ラ・ウェア伯爵のために建てられたもので、当初は彼の家族が使用するための家も併設されていた。1891年、長男のカンテループ子爵は、ベクスヒル近郊のノルマンハースト・コートのトーマス卿と故アニー夫人ブラッシーの娘、ミュリエル・ブラッシーと結婚した。荘園は全面的に改装され、カンテループ卿とレディー・カンテループは、荘園の領主と領主夫人として優雅に暮らすことができるようになった。最後に、7代目デ・ラ・ウェア伯は、ベクスヒルの領地の管理権をカンテループ子爵に譲渡した。 8代目デ・ラ・ウェア伯となったカンテループ子爵は、エンターテイメントとリラクゼーションのための施設、クルサールの建設計画を立てた。また、デ・ラ・ウェア・パレードの東端にサイクルシャレーを備えた自転車競技場を建設した。これらの設備は、新しいリゾート地をアピールするためのものだった。また、健康に良いという評判を聞きつけた多くのインデペンデント・スクールが数多く立地するようになった。ベクスヒルに鉄道が開通した1846年、最初の駅舎は、現在セインズベリー駐車場となっている場所にあり、丘の上にある村からは少し離れていた。1891年、リゾート地の成長に合わせて新しい駅舎が建設された。1902年には現駅舎が開業し、クロウハースト線のためにベクスヒル・ウェスト駅も開業した。 1902年は、ベクスヒルがバラに昇格した年でもあった。ベクスヒルが法人化されたのはサセックスのタウンの中で最後であったが、英国王室からの勅許状が初めて自動車で配達されたタウンでもあった。同年5月には、バラ昇格とリゾートの宣伝を兼ねた国内初のカーレースがデ・ラ・ウェア・パレードで開催された。 同じ時期、ベクスヒルの町中では8代目デ・ラ・ウェア伯の離婚騒動で持ちきりだった。妻のミュリエルは夫の不倫と育児放棄を理由に訴訟を起こし、3人の親権獲得と離婚が認められた。その後彼女は子供のマイラ、エイビス、ハーブランドとともに、実家のブラッシー伯爵のもとに戻って暮らした。8代目デ・ラ・ウェア伯は再婚したが、再び不倫で離婚した。また、経済的な問題もたびたび発生し、世間を騒がせた。1914年に第一次世界大戦が始まると、伯爵は英国海軍の任務を買って出たが、翌年イタリアのメッシーナで熱病にかかり死去した。 8代目デ・ラ・ウェア伯の死後、息子のハーブランドが9代目デ・ラ・ウェア伯となった。彼は1935年に開業したデ・ラ・ウェア・パビリオンの建設で知られており、社会主義者として初めてベクスヒル市長に就任した。彼は1976年に死亡した。
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