デラウエア邦の知事
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「ジョン・マッキンリー」の記事における「デラウエア邦の知事」の解説
1777年2月12日、デラウェア邦議会はマッキンリーを最初の知事(President)に選出した。マッキンリーは1777年9月22日までその職にあった。知事としてのマッキンリーは直ぐに王党派の暴動に直面した。特にサセックス郡で激しかった。大陸軍のデラウェア連隊では、最初に徴兵した兵士の徴兵期間が切れるために新兵を徴兵する必要もあった。しかし、1777年9月11日のブランディワインの戦いでイギリス軍が大勝したために事態は急変した。戦闘が終わった後の夜、イギリス軍第71連隊すなわちフレーザーズ・ハイランダーズが10マイル (16 km)の距離をウィルミントンに向かい、デラウェア川のイギリス艦隊と落ち合って負傷者のための病院を作ることになった。その最中にイギリス兵が邦の文書類を含む宝物を見つけて取り上げた。イギリス兵はさらに寝室にいたマッキンリー知事を見つけて捕虜として連れ帰った。マッキンリーは戦争捕虜としてデラウェア川上のローバック号、後にはソールベイ号に収監された。 歴史家のジョン・シャーフはその著書「デラウェアの歴史」でこの状況を次のように書いている。 ウィリアム・ハウ将軍はブランディワインの宿営地に留まっており、戦闘の後の夜にウィルミントンに分遣隊を派遣してジョン・マッキンリー知事を捕まえさせ、途中にあるものも略奪してくるように命じた。分遣隊は真夜中に寝室にいた知事を捕まえ、流れの上にあったスループを捕獲して住民から奪った貴重品、大量の公的および私有財産、公的および私的記録文書、および貸し金や財務局の文書、証明書などを船にを積み込んだ。略奪者はこれら捕獲品と共に宿営地に戻ったが、12日も13日もウィルミントンはイギリス軍に占領されており、イギリス海軍のマン・オブ・ウォー、ローバック号とリバプール号は町の反対側に停泊していた。負傷した多くのイギリス兵がウィルミントンに担ぎこまれ、住民は少なくともその家がイギリス軍の病院として使われている限りは砲爆の心配が無いと理解した。 — 1778年8月20日、マッキンリーは大陸会議の議長であるヘンリー・ローレンスに当てて次の手紙を書いた。 幾つかの出来事が同時に起こって、敵がフィラデルフィアに進軍している間に私がウィルミントンに留まっていることを公にする必要が生じた。私自身の安全よりも私の義務を果たすことを切望していたので、不覚にも去る9月12日に続く夜に私の家で捕虜になった。捕まえたのは第71イギリス連隊で、その時は900名はいると言っており、その前の日に怒ったブランディワインの戦いで傷ついた兵士を収容させる場所を確保するために派遣されていた。私は私有財産を多く失ったが持ちこたえている。 — 1778年6月、イギリス軍がフィラデルフィアを去るとき、マッキンリーはニューヨーク邦のブルックリンに移送された。マッキンリーは1778年8月にニュージャージ邦の王党派知事でベンジャミン・フランクリンの息子であるウィリアム・フランクリンとの捕虜交換で釈放された。 デラウェア邦議会(知事の時の会期)年会期上院多数派議長下院多数派議長1776/77年 第1会期 無党派 ジョージ・リード 無党派 トマス・マッキーン
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